平成22年度計画の発掘調査

いずれも国土交通省関係です
1. 土佐国道事務所関係
  (1) 高知南国道路
    田村遺跡
    田村西遺跡
    関遺跡
  (2) 南国安芸道路
    東野土居遺跡
    徳王子大崎遺跡
  (3) 高知西バイパス
    バーガ森北斜面遺跡

過去のデータ
平成21年度・・・・・・・・・・・・・・・・

1. 土佐国道事務所関係
  (1) 高知南国道路
    関遺跡
  (2) 南国安芸道路
    徳王子前島遺跡
    東野土居遺跡
  (3) 高知西バイパス
    天神溝田遺跡
2. 高知河川国道事務所事業
  (1) 波介川河口導流事業
    上ノ村遺跡
3. 高知地方検察庁事業
    西弘小路遺跡
平成20年度・・・・・・・・・・・・・・・・
1. 土佐国道事務所関係

  (1) 高知南国道路

    関遺跡
    向山戦争遺跡遺跡
  (2) 南国安芸道路
    徳王子大崎遺跡
    徳王子前島遺跡
  (3) 高知西バイパス
    鎌田遺跡・貢山城跡
    天神遺跡
2. 高知河川国道事務所事業
  (1) 波介川河口導流事業
    上ノ村遺跡

平成19年度・・・・・・・・・・・・・・・・
1. 土佐国道事務所関係
  (1) 高知南国道路
    西野々遺跡
  (2) 南国安芸道路
    徳王子広本遺跡
  (3) 高知西バイパス
    城ヶ谷山遺跡
2. 高知河川国道事務所事業
  (1) 波介川河口導流事業
    上ノ村遺跡

 

田村西遺跡

 高知南国道路建設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査を5月下旬から南国市田村地区の集落から少し西側に離れた南国広域農道沿いの一帯で行います。この遺跡は,同事業の施行に伴い高知県教育委員会文化財課が行った事前の試掘確認調査によって溝跡・ピットなど弥生時代の遺構が確認されたもので,田村西部地区に所在する遺跡として知られています。今回の発掘調査は,当該道路建設予定地のうち約8,000平方メートルを対象に来年2月中旬頃まで順次調査を進めて行く予定です。(2010.5)

 弥生時代後期末から古墳時代初め,古代から中世にかけての溝跡が見つかっています。溝跡が中心であることから集落跡ではなく水田関連の遺跡と考えられます。  弥生時代弥生溝跡後期末から古墳時代初めの溝跡は,ほぼ直線的に掘られており,幅約1.5m,深さは検出面から約50pです。現在の地形から考えて北東から南西にむけて流れていたと推測できます。この溝跡から土器がたくさん見つかっており,県外で作られた土器も含まれています。近辺にこの時期のムラが眠っていることは間違いないようです。
 古代では南北方向に3条の溝跡が重複して見つかりました。中から遺物はほとんどみつからず,時期を特定する古代溝跡ことは難しいものの,埋まっていた土などの特徴から古代あるいは中世のものと考えられます。これらの溝跡の方向は北から12度前後東に振り,ほぼ直線に掘られています。この北から12度前後のずれは,この地域の古代の基準となっていることが調査研究から明らかとなっています。また,この溝跡の約108m東には旧長岡郡と旧香美郡の郡境(現在の農免道路)が走っており,この長さは古代の約1町に相当します。以上のことから坪境など条理地割と関連がある溝の可能性があります。同じ場所に何度も重複して溝が掘削されていることから長期間にわたって同じ土地割りを踏襲していたと考えられます。(2010.7.9)

 錆野川よりも東の調査区(II区)へ移りました。田村西遺跡では初となる竪穴建物跡が現在までに5棟見つかっています。すべて弥生時代後期後半のものと考えられ,錆野川以東の調査区(I区)の溝跡とほぼ同時期と考えられます。前回の報告でこの溝跡と同時期のムラが周辺にあるのではないかと書きましたが,これほど早くムラの一端が見つかるとはまったく考えていませんでした。II区はI区に比べ,現在の標高や遺構が見つかる標高は若干高い程度ですが,今回II区で見つかった竪穴建物跡には床面しか残っていないものもあり,かなり削られているようです。一般的な竪穴建物跡の深さから考えて,当時の地面は今よりも50cmは高かったものと推測でき,両調査区の標高差は本来もっと大きかったものと考えられます。  以上のことから錆野川より西の微低地で米を作り,錆野川より東の微高地に家を作り生活していた弥生時代の風景を復元できそうです。 (2010.8.11)

 今月は晴れの日が続き,猛暑と闘いながらの作業となりました。
 竪穴建物跡の一つに炭化した木がたくさん見つかったものがあり,火災により燃えてしまったと考えられます。一辺約6mの隅丸方形をしていたと推測でき,約40cmの深さまで残っていました。また,壁際は床面よりも一段高く作られていました。この部分は,いわゆるベッド状遺構とか高床部と呼ばれている施設で,土器などの生活道具などを置いた場所と考えられています。
 炭化した木は柱や梁などの建築部材の一部と考えられ,建物跡の西半部では放射状に倒れており,東半部では南北方向に倒れていました。前回,地面が削られて床面しか残っていなかった竪穴建物跡について報告しましたが,この建物も削平されていたら,火事に遭っていたことはわからなかったことでしょう。
 また,竪穴建物の北西部から赤色顔料が付着した台石とその近くから赤色顔料が入れられた小形の壺が見つかりました。台石は床面に置かれており,壺はベッド状遺構の上に置かれていました。台石の上面に顔料が付着していたことから使われていた当時の場所から動いていない可能性もあります。想像力をたくましくすれば,台石のそばに座り,顔料を精製し,壺に入れ,ベッド状遺構の上に置いていたこの家の住人の行動を見ることができそうです。(2010.8.31)

 1月下旬に発掘調査が無事終了しました。最後になりましたが,遺跡周辺の皆様にはご理解とご協力をいただき,ありがとうございました。
 今回は,不思議な形をした遺構について報告します。一つの大きな土坑にいくつかの溝がつながっていました。それぞれの溝を掘っていきますと,底には等間隔に穴がたくさん掘られていました。この穴がたくさん掘られた溝は大きな土坑にむかって深くなっていきます。大きな土坑の底にも穴がたくさん掘られています。穴の形は,溝状のものから楕円形のものまであります。穴と穴が重複しているものも見られることから,埋まってしまった後に,もう一度同じような穴を掘っていたようです。初めに掘られた穴の中には砂が入っていましたので,洪水などで埋まってしまった可能性があります。この不思議な遺構は,調査区外へとひろがっており,全体像はわかりませんが,ヒトデのような形になる可能性があります。使われていた時代,他の遺構との関係,周辺の地形を考慮に入れ,そして類例の調査事例を参考に,この遺構の性格を明らかにしていきたいと思います。
 この度の発掘調査により,いくつかの課題も見えてきました。一部を列挙してみますと,弥生中期末から後期初頭の土地利用,弥生時代終末から古墳時代初頭の平野部集落の実像,古代から中世にかけての香長条里との関係などです。今後の整理作業及び周辺の発掘調査が進めばこれらの課題を克服できるとともに田村西遺跡の果たした歴史的役割も明確になるでしょう。(2011.2.21)