土佐の青銅器
出原 恵三
青銅器は,弥生文化を特徴づける代表的な遺物であると同時に未だに謎の多い魅惑的な遺物として私たちの興味を引きます。弥生時代の青銅器と言えば,最近では島根県荒神谷の銅剣・銅矛などの大量埋納やそれに続く加茂岩倉遺跡の39個にも及ぶ銅鐸の発見など,出雲が話題をさらっています。しかし太平洋岸の土佐は,山陰地方で青銅器が用いられなくなった以後にも集中的に分布が認められる地域として注目されています。わけても弥生時代後期の広形銅矛と近畿式銅鐸(「見る銅鐸」)の分布は,弥生時代社会における南四国の果たした役割を知るうえで重要な現象であります。 さて,すでに周知のように,アジア世界の東端に位置する日本列島は,世界史に一般的に認められる青銅器時代を経験することなく,縄文時代すなわち石器時代からいきなり青銅器と鉄器を有する弥生時代へと移行しました。したがって鉄器時代の青銅器文化と言うところに弥生時代の青銅器のあり方を規定した本質が横たわっています。具体的に述べれば,鉄器は石器とともに実用の利器として使われ,青銅器は実用品としての可能性をすべて否定することはできないにしても,その多くは最初から個人の権威を高めるための威信財,或いは宝器や祭器としての言わば「第二の道具」としての役割を果たすことになったのです。 弥生時代の青銅器は前期末頃,朝鮮半島製のものが本格的にもたらされるようになり,時を同じくして北部九州では生産が始まります。中期に至ると瀬戸内や近畿地方においても製作されるようになります。その初期においては,輸入品を忠実に模倣していますが,やがて武器類などは大型化の一途をたどって武器形祭器となり銅鐸も同様の運命をたどります。この実用性を離れた大型化した青銅祭器に弥生時代の青銅器文化のあり方が象徴的に現れていると言えましょう。 土佐の青銅器の種類と分布 現在確認されている弥生時代の土佐の青銅器は,銅剣・銅戈・銅矛・銅鐸・銅鏡(鏡片)を挙げることができます。鏡を除くとこれらの青銅器は,開墾などの際に偶然発見されたものや長い間神社に保管されてきたものが多く,出土状態の明らかなものは必ずしも多くありません。以下,種類別にその時期や分布について見ていきたいと思います。 銅剣は10本確認されていますが,現存するのは7本です。弥生時代の青銅器は,朝鮮半島から北部九州にもたらされ,やがて国内生産されるようになりますが,武器類の中で銅剣は最も早い段階に九州以外の地域へ出ていきます。古いものから細形・中細形・平形銅剣などに型式分類されていますが,土佐の銅剣は4本までが細形銅剣で他のものは全て中細形に属するものです。弥生時代前期末から中期にかけて九州からもたらされたものですが,最も古い伊野町八田や葉山村三島神社に伝わっていたものは,土佐の青銅器の中では最古のものです。これらは朝鮮半島製の可能性もあり,武器として用いることもできます。しかしこれらの剣の関(剣身の下端)には双孔が穿たれていることから,この孔に装飾を施した祭器として使われていたことが考えられます。九州ではこの時期のものは墓から出土し双孔もありません。土佐では出土状況から見て埋納していたことが考えられます。つまり最初の段階から使われ方も出土状況も九州とは異なっていたと言うことができます。中細方に属する6本も最も大型の2例(波介1号,白雲神社)を除くとすべてのものに双孔が開けられています。この2例は中細形の中では,最も後出するタイプで先に挙げた出雲荒神谷で出土した358本の銅剣と同じタイプのものです。 次にこれら銅剣の分布を見ると10本のうち7本までが新荘川流域とその周辺から出土し,2本が伊野町から,1本が絵画銅剣として最近注目を集めた野市町兎田八幡宮で発見されたものです。この他銅剣には瀬戸内側で発達する最も新しいタイプの平形銅剣と呼ばれるものがありますが,土佐からは発見されていません。 銅戈は,長い柄の先端部に茎(内)を直角に差し込んで固定し,いわば鎌のようにひっかけて切る武器です。土佐では5本が確認されていますが,四国の他の3県には確実な出土例がありません。中国地方を含めても土佐の5例が最多を占めています。銅戈には九州で作られた九州型と大阪湾沿岸部で作られたと考えられている独特の紋様を持った大阪湾型と呼ばれるものがありますが,土佐の5例はすべて弥生時代中期に九州からもたらされたものです。中細形が4本,中広形が1本で,窪川町の神社蔵の3本と中土佐町久礼八幡神社蔵の1本が中細形,伊野町天神出土の1本が中広形に属します。銅戈の分布は窪川台地とその周辺に分布の中心があります。細形銅剣に続いて九州から持ち込まれ,はじめのうちは銅剣の分布圏と重複しない窪川台地に配付され,やがて中広形の段階になると東に分布圏を広げていきます。 銅矛は,51本が確認されています。銅矛は本来槍のように突き刺す武器として作られた武器ですが,槍とは異なって刃部であるところの身部と柄を挿入する袋部とからなっており,袋部の下には半環状の耳と節帯がついています。銅矛も他の武器と同様に前期の末頃から九州で生産されはじめ,やがて大型化していきますが,銅剣や銅戈が九州以外の地域でも生産されたのに対して銅矛は終始一貫九州のみで作り続けられました。また銅剣や銅戈が細形の段階,つまり前期末や中期初から四国や中国地方へ搬出されたのに対して銅矛は中細形の段階=中期中葉に至ってはじめて他地域へと持ち出されるのです。中細段階においても搬出の数は極めて少なく本格的に出始めるのは次の中広形の段階=中期末になってからです。このように銅矛は九州において最も重要視された青銅武器(武器形祭器)と言うことができます。中広形銅矛は,山陰と南四国に多量に持ち込まれます。瀬戸内地方に少ないのは,この時期瀬戸内地方が平形銅剣と言う独特の青銅器分布圏を形成していたことと無関係ではないでしょう。 土佐の51本の内訳を見ると中広形が35本,後期に属する広形が15本,型式不明のものが1例あります。これらの分布について見ていくと,中広形銅矛は中村市の中筋川左岸の石丸遺跡を西限として東は物部村(熊野神社神体)に至る広範囲に分布していますが,図示したように窪川台地に集中しており,須崎市や土佐市・高知市そして嶺北から比較的多くの出土が見られます。この時期,南四国で最大の規模を有していた南国市の田村遺跡群の周辺からは,遅倉遺跡の1本だけと言うのは不可解な感じがします。ただ中期末の田村遺跡は,出土遺物から中部瀬戸内の強い影響のもとにあったことが窺えます。従って九州的なものの流入を拒んでいたことも考えられます。 後期の広形銅矛は,窪川町の西の川口遺跡や高岡神社などにも認められるものの分布の中心は明らかに東に移動しています。そして後述するように銅鐸の分布圏との重複は極めて興味深い現象であります。51本もの銅矛はどのようなルートを通って運ばれて来たのでしょうか。窪川町の西に続く南予と呼ばれる愛媛県南部の地域にも中広・広形銅矛の集中地帯が続いています。おそらく九州から南予に上陸して窪川台地に入り,窪川台地が土佐の銅矛配付センター的な役割を果たし,そこから高知平野を中心とした各弥生集落へ配られたものと考えられます。 銅鐸は青銅器の中でも最も謎の多い遺物とされています。農耕祭祀に供された楽器,或いは穀霊の依代ではないか,などさまざまな解釈がなされています。さて銅鐸は和辻哲郎の『日本古代文化』(1939年)以来長い間,九州を中心とする銅剣銅矛文化圏と近畿を中心とする銅鐸文化圏が存在し,両者の対峙的な現象に政治的な対立を読み取ると言う解釈がなされてきましたが,最近では九州でも銅鐸が出土し,さらに製作跡まで発見されるに至っては従来のような単純な構図では理解できなくなってきました。銅鐸は本来吊して鳴らすという機能を持っていましたが,大型化していく中で本来の機能を失い,多くの紋様で飾られ見るためのものに変化していきます。前者を「聞く銅鐸」,後者を「見る銅鐸」として大きく別けることができます。「聞く銅鐸」はおおよそ前期末から中期,「見る銅鐸」は後期に位置付けることができます。昨年話題を呼んだ加茂岩倉遺跡の銅鐸はすべて「聞く銅鐸」です。土佐では10個の銅鐸が確認されていますが,その内8個が「見る銅鐸」に属しています。この見る銅鐸は,西日本では和歌山県南部や徳島県南部と土佐に集中しており,瀬戸内や山陰には見られないという特徴的な分布をしています。つまり弥生時代後期になって畿内から太平洋岸に集中配布されたのです。土佐では武器形祭器とは対称的に東部を中心に分布し,田村遺跡群のある南国市付近で銅矛と混在しています。このような現象について,かつては近畿と九州の勢力の最前線としての構図が描かれていました。 果たしてそのような見解は妥当なのでしょうか。田村遺跡群をはじめ高知平野での発掘調査が進み当時の集落の資料が増加しつつありますが,社会的な緊張関係や武力抗争を窺わせるような状況証拠はありません。南四国における銅矛と銅鐸という二つの青銅祭器の対称的な分布については,もっと別の理由を考える必要があると思います。瀬戸内や山陰で青銅祭器が使用されなくなった段階に土佐を含めて西日本の太平洋岸から北部九州さらに対馬にかけて青銅祭器の分布地帯が形成されることの方が,弥生時代後期社会を考える上で重要であると考えます。すなわち青銅祭器の器種の違いを追究することよりも,青銅祭器を共有する地域圏が形成されることの方が重要な意味を持っていると思います。 鏡は方格規矩四神鏡2面,内行花文鏡2面,鏡式不明のもの1面の計5面が出土しています。これらの鏡は残念ながら破片での出土ですが,すべて中国の後漢鏡に属するものです。方格規矩四神鏡2面と内行花文鏡1面は田村遺跡群の竪穴住居や水溜状遺構から,内行花文鏡1面は介良遺跡の包含層から,鏡式不明の1面は春野町の西分増井遺跡の竪穴住居から出土しています。西分増井遺跡例が古墳時代初頭に属する以外はすべて弥生時代後期に属しています。これらの鏡は,偶然に破損したと言うよりも最初から破鏡として持ち込まれたものと考えられます。弥生時代の鏡は,中国との交流の中で福岡平野に集積され,中・後期の甕棺から数多く出土していますが,後期になると西日本各地の集落から破鏡の出土が目立つようになります。田村遺跡群出土のものには,破損面が摩滅して丸くなっているものがあります。これは破鏡のままで長期間使用された証拠です。完全な鏡を入手することのできなかった地域においては,破鏡が完全な鏡と同様の意味合いで使われたことを示すものです。 以上,土佐の青銅器について述べてまいりました。先ず前期末頃から銅剣が続いて銅戈が土佐の中央部に分布するようになります。そして中期末に多量に中広形銅矛を入手するに至って,南四国の西半分は,東部とも瀬戸内とも異なった独特の青銅器分布圏を形成するようになります。後期になると高知平野に初めて鏡が登場し,中・東部に銅鐸と広形銅矛の混在地帯が,西部に広形銅矛の分布地帯が形成されます。すなわち西日本外帯における青銅器分布地帯の一翼を構成し,弥生文化の終焉を飾るのです。
『埋文こうち』第11号 高知県教育委員会 1998 より