中世城郭の変遷
松田 直則
平成5年度は高知県の発掘調査の中でも春野町に所在する芳原城や,長宗我部氏最後の居城である浦戸城跡の調査が注目されました。両城とも重要な遺構が検出され,開発か保存かで議論されました。芳原城跡は,土佐の中でも典型的な土造りの城で,浦戸城は豊臣配下の中で最後に構築した城で,織豊期を代表する城郭です。この2城跡の調査が注目された点は,検出された遺構・遺物から城郭の変遷が解明できることです。全国的に城郭の構築方法は,土造りから石造りに基本的に変化してきます。土佐の中でも同様に,発掘調査の結果から掘立柱建物から礎石建物へと変化していることがわかり始めました。芳原城跡と浦戸城跡を中心に中世城郭の変遷を見ていきたいと思います。 芳原城跡は,出土した遺物から15世紀から16世紀前半代に利用された城です。この城は,低い独立丘陵に構築されていますが,詰やそれを取り巻く二ノ段に,建物跡が7棟検出されました。すべて地山を掘り込んだ掘立柱の建物跡です。土塁等は削平され確認できませんでしたが,虎口も地山を成形し空間を造りだしています。この時期の城跡は,中村市で調査された栗本城跡や扇城跡・ハナノシロ城跡を見てもすべて芳原城跡と同様な土造りの城であることがわかります。 浦戸城は,1591(天正19)年に構築された城です。この浦戸城は長宗我部氏が豊臣傘下で最後に構築した全国的にも有名な城です。しかし観光地でもあり開発の破壊が著しく,調査では石垣の一部と瓦が大量に出土しました。石垣は,織田信長が築いた安土城のものと近い構築方法をしていました。浦戸城は,天守を持つ近世的な城郭で,石垣や瓦葺きの礎石建物が立ち並ぶ本格的な石造りの城郭です。 ここで注目する点として,城郭の中で石垣・瓦葺きの建物を持つ城が土佐の中でいつごろ出現してくるかです。県内で調査された城の中で,岡豊城跡や中村城跡に同じような構造を持つ遺構や出土遺物があります。瓦を見ると岡豊城跡から,「天正3年」と刻まれた瓦片が出土していますので土佐の城郭の中で瓦葺きを最初に採用したのは,岡豊城であることがわかります。そこで,中村城跡や浦戸城跡の瓦と岡豊城の瓦を比較検討してみました。 岡豊城出土の瓦が古く,中村城そして浦戸城という変遷をつかむことができ,さらに石垣も同様でした。土佐の中で瓦・石垣の使用は,織田信長や豊臣秀吉との強いつながりの中で考えていかなければなりません。石垣や瓦は見られませんが,礎石の建物跡が検出された城跡として,中土佐町の久礼城跡や伊野町の波川城跡があります。これらの城跡を,どの時期に位置付けるか問題が残りますが,芳原城跡で礎石建物が確認できないことから,芳原城廃城以降の時期を想定できます。この時期は,長宗我部氏が勢力をのばしてきており,その影響下に構築された城ではないかと考えます。 長宗我部氏が天正3年に土佐を統一しますがこの時期以降は織田政権との関わりで瓦を採用し,それ以後中村城を西の要の城として石造りの城に再構築し,その後豊臣政権の後押しで浦戸城に壮大な天守を持つ近世的な城郭を造りあげたと考えられます。 土造りの芳原城から石造りの代表である浦戸城の調査は,土佐の城郭を語る上で避けて通れない貴重な資料を提供することができました。土佐で構築された中世城郭は,約600城跡以上確認されており,時代と共にこれらの城跡の頂点に浦戸城跡が存在し,城の変遷は近世の高知城に移り変わります。
『埋文こうち』第7号 高知県教育委員会 1994 より