高知県立美術館所蔵の代表的な作家
高知県立美術館には、国内外の約440名の作家の作品が収蔵されています
| マルク・シャガール | アンゼルム・キーファー | パウル・クレー |
| 絵金 | 河田小龍 | 山本昇雲 |
| 石川寅治 | 山脇信徳 | 土方久功 |
| 今西中通 | 石元泰博 | 奥谷博 |
| 日和崎尊夫 |
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代表的な作家のプロフィール
マルク・シャガール 1887-1985
ロシア、現在のベラルーシ共和国にある寒村ヴィテブスクの貧しいユダヤ人の家庭に生まれ、帝都ペテルブルグの美術学校で学ぶ。
1910年から14年までパリに住み、詩人サンドラール、アポリネールらと親交を結ぶ。キュビスムの空間的効果、ドローネーらの鮮烈な色彩表現に影響を受けたが、子供の頃の記憶からイメージを引き出し、詩的で豊穣な、シャガールならではの幻想的な様式を展開。1914年、ベルリンの表現主義の牙城シュトゥルム画廊で個展を開催、その後も同画廊と関係を保ち、ドイツ表現主義の運動に影響を与える。
二度にわたる世界大戦の戦火や、ヨーロッパ中を踏みにじったナチ政権によるユダヤ民族迫害、アメリカへの亡命、制作の霊感の源であった愛妻ベラの死去など、さまざまな苦難を乗り越えて画業を深め、世界中の人々に愛と希望を与え続けた。1950年から南仏のヴァンスに定住し、晩年にいたるまで旺盛な制作意欲を発揮したが、1985年に惜しまれつつ逝去。享年97歳。
油彩画等 5点
「空を駆けるロバ」、「路上の花束」、「花嫁の花束」、「オルジュヴァルの夜」、「村の祭り」
版画 1,202点
「アラビアンナイトからの四つの物語」、「ラ・フォンテーヌの寓話」、「死せる魂」、「聖書」、「ダフニスとクロエ」など

マルク・シャガール《路上の花束》,1935
(C) ADAGP,Paris & SPDA,Tokyo 2011, Chagall (R)
アンゼルム・キーファー 1945-
旧西ドイツ、バーデン州ドーナウエッシンゲンに生まれる。
1965年、フライブルク大学で法律を学ぶが、やがて芸術を志し69年にホルスト・アンテス、その後デュッセルドルフでヨーゼフ・ボイスに師事。ナチ式敬礼をするセルフ・ポートレイトで衝撃的なデビューを飾った後、卓越した油彩の技術をもって壮大なスケールのパノラマ的風景の中にドイツ民族の栄光と悲惨を浮かび上がらせる一連の作品で国際的に評価される。
80年代後半にはモティーフを旧約聖書や古代文明に求め、より普遍的な「神話」の再構築を模索しようとしている。80年、97年のヴェネツィア・ビエンナーレ、87年のドクメンタ8に参加。99年、高松宮記念世界文化賞を受賞。現在、フランス在住。
油彩画等 1点 「アタノール」
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パウル・クレー 1879-1940
スイス、ベルン近郊のミュンヒェンブーフゼーで生まれる。
1898年以来ミュンヒェンで絵画を学ぶ。1901年にイタリア、1905年にはパリを訪れる。その間に細密な解剖学的習作や最初のエッチングが成立。1906年にミュンヒェンに定住、当地で彼は1912年に「青い騎手」に加わる。同年パリでロベール・ドローネーと出会うが、それが更なる展開への契機となる。1914年にマッケらとチュニジアを旅行し、以後新たな色彩表現による独特な作品を制作。1916年から18年まで兵役につく。1920年から31年までバウハウスのマイスターを務める。1931年にデュッセルドルフのアカデミーの絵画コース教授に迎えられる。ナチの政権奪取に伴い政治的に教職が制限され、故郷のベルンに帰還、病苦のなかで制作を続けた。ロカルノ近郊ムラルトで没。
油彩画等 1点 「故郷」
版画 「綱渡り師」ほか3点

パウル・クレー 《故郷》, 1929
絵金(えきん) 1812-1876
高知市に生まれる。本名は弘瀬洞意。通称は金蔵。別号に雀七、友竹、友竹斎、雀翁がある。1824年、仁尾鱗江に絵を習う。1827年、藩の絵師池添楊斎美雅に入門、美高の名をもらう。1829年、江戸土佐藩御用絵師の前村洞和に入門し、駿河台狩野家は7代洞白に入門したともいわれる。1832年、帰郷して家老桐間家の御用絵師になり、林洞意を名乗る。1844年頃、贋作事件によって失脚、身分を剥奪、御用絵師を解任されて一介の町絵師に戻り、弘瀬柳栄を名乗る。
その後暫くして高知県中央部の在郷町、浦方商人の庇護で、歌舞伎、浄瑠璃を題材に芝居絵、屏風、絵馬提灯、奉納絵馬、横幟、絵巻物、凧絵等多様に制作。奔放な墨線の濃淡、泥絵具を駆使した強烈な色彩に天分を発揮し、土佐芝居絵の絵金として高知の庶民に親しまれた。
異端の絵師として1960年代から評価が高まり、高知県赤岡町の「絵金祭り」等高知県内の祭事で作品が見られる。1996年、「土佐の芝居絵と絵師金蔵展」(高知県立美術館)を開催。
2007年、「絵金の芝居絵」を開催。
日本画等
「図太平記実録代忠臣蔵」ほか45点(「絵金派(絵金の弟子の作品など、絵金の真筆と断定できないもの)を含む」)

絵金 《太平記忠臣講釈》
河田小龍(かわだ しょうりょう) 1824-1898
高知市の土生家に生まれ、祖父の河田家を継ぐ。通称は篤太郎、別に土生奏渓や維鶴、または小梁、松梁、笑龍等のほか皤山、半舫斎、大巧、玉琳、翠竹等がある。初号は小梁、後に小龍とした。12歳頃
、家督を弟に譲り島本蘭渓に入門、ひところ林洞意の門に転じ狩野派を修める。1844年、藩老吉田東洋に従って京坂に遊び、書を篠崎小竹、南画を中林竹洞に学び、北画は狩野永岳に師事。1848年、二条城襖絵修理に従事。1849年に長崎、1851年に江戸に遊学、学識、画技ともに向上。翌年、アメリカから帰国した漂流漁民の中浜万次郎の取り調べにあたり、『漂巽紀略』を著した。1854年、薩摩において大砲鋳造法図を措き、さらに長崎の木下逸雲に師事して清朝南画の画法を聞く等、諸方面に海外の情報、知識を吸収して帰り、当時藩中第一の新知識と称された。1869年、高知藩書記掛、1876年、高知県勧業課出仕、内国博覧会事務掛等に就く。1879年、四国各地から九州方面を遊歴、一時広島に居を定めたこともあった。1889年、京都府知事に招かれ、琵琶湖疎水工事の過程記録図誌作成の依頼を受ける。1893年、京都に医家を開業した長男の下に移り、画業に専念。内国勧業博覧会に2度出品し、明治天皇の前で御前揮毫を行う。高知では画学塾の墨雲洞で多くの弟子を育て、また坂本龍馬に航海通商策を教えたといわれる。
日本画等 「美人図」ほか90点

河田小龍 《西王母》, 明治中期頃
山本昇雲(やまもと しょううん) 1870-1965
高知県南国市に生まれる。通称は茂三郎。6歳頃より山内家御抱え絵師の柳本洞素に学び、ついで1879年に河田小龍に入門して小斎の号をもらう。1886年、大阪に出て陶器の絵付けをしながら絵を独学、1888年には上京して滝和亭に入門。1894年、『風俗画報』に投稿した≪土佐国早乙女図≫(どろんこ祭り)が採用され、翌年出版元の東陽堂に絵画部員として入社、以後20年間松谷の号で多くの報道画や風俗画を描き、近代挿絵画家の先駆者になる。全国各地の事件や風俗を掲載する石版印刷の下絵画家として活躍し、明治の東京を描いた≪新選東京名所図会≫64冊(1896-1909年)は代表作。1895年、第4回青年絵画共進会で人賞。1896年、第1回日本絵画協会展に《松鶴図≫で二等褒状を受け、文展、帝展に出品する昇雲の号では日本画家として登場。1898年、日本美術院創立第1回展から入選を続け、≪野路図≫(第8回展)と≪高嶽≫(第10回展)が一等褒状を受ける。1907年、第1回文展から出品を続け、1912年の第6回文展で≪花≫(宮内庁買い上げ)、≪屠蘇≫(第8回展)等で大正美人画の一翼を担う。版画家として≪今すがた≫(1906-09年)の美人画シリーズや《子供あそび≫(1906年)等で近代浮世絵版画家として評価され、当時を知る貴重な資料としても評価が高い。1961年、挿絵画家の先駆者として再評価され挿絵協会から表彰される。土陽美術会の創立会員としても活躍した。
日本画等 「双艶競芳」ほか73点
版画 139点

山本昇雲 《競艶双芳》
石川寅治(いしかわ とらじ) 1875―1964
高知市に生まれる。第二中学校で上村昌訓に教えを受け、1891年に上京、小山正太郎の不同舎に入る。1893年、明治美術会の第5回展に初出品。1900年、パリ万博に出品。1901年、明治美術会の組織改革で新会務委員となって翌年太平洋画会の結成に参加、第1回展から出品。1902年から1904年にかけ、欧米へ渡って作品を発表。1907年、東京勧業博覧会で三等賞受賞。同年、第1回文展に出品、以後も帝展、日展に出品を続け、監事、審査員等として後進を指導。また在京の高知出身の美術家と土陽美術会を創設。1908年の第2回文展で《菊》が三等賞受賞。1909年の第3回文展で《葡萄》が褒状を受ける。若い頃から日本各地はもとより台湾、中国江南地方等で数多く写生旅行を行い、1918年には台湾総督府の新庁舎会議堂の壁画を制作。1919年、文部省教員検定委員会臨時委員となり、以後15年間勤める。木版画にも才能を発揮し、1934年に木版画《裸女十種》を制作。1938年、海軍省嘱託となり中国(上海、南京、安慶)に派遣され、太平洋戦争中は南方方面へ派遣されて戦地を記録デッサン、絵画に描いた。1947年、太平洋画会を脱会して示現会を結成、代表となる。1949年から東京教育大学講師として5年間勤める。1953年、日本芸術院恩賜賞を授与される。画風は初期の脂派の暗い色調から印象派風の明るい色調へ変わった。
油彩画等 「凝視」ほか22点
ドロ-イング 306点
版画 39点

石川寅治 《裸婦(凝視)》, 1931
山脇信徳(やまわき しんとく) 1886―1952
高知市に生まれる。本名は「のぶのり」。1904年、県立第一中学校(現在の追手前高校)在学中に楠永直枝、上村昌訓に絵の手ほどきを受ける。東京美術学校西洋画科に進学、在学中の1907年の第1回文展に《町の橋》が入選し、また同年の第11回白馬会展にも出品。1909年の第13回白馬会展には《雨の夕》《夕日》などを出品。また第3回文展で《停車場の朝》が三等賞を受賞し、バーナード・リーチや高村光太郎らに絶賛される。1910年、個展を開催。この頃、武者小路実篤、志賀直哉らが創刊した『白樺』に参加。1912年、滋賀県立膳所中学校に赴任。1915年、第2回院展に洋画部員として参加。1916年に退職。一旦上京するが、妻の病気などのため高知に戻る。1917年の第4回院展で《湖畔》が樗牛賞受賞。また同年第11回文展で《疎林》が入選。1922年、中国東北部の奉天に奉天中学校職員兼満州中学校嘱託として赴く。1923年、梅原龍三郎に誘われて春陽会客員になる。1925年、奉天中学校退職後に渡欧、翌年、梅原龍三郎らが創立した国画創作協会洋画部に会員として加わり、以後出品を続ける。1925年から29年にかけてヨーロッパ各地を旅行後にシベリア経由で帰国。1931年、高知絵画研究所を指導し、また自ら南海画学堂等を結成して後進を育てる。1932年、高知県美術家連盟の会長になる。1936年、土佐女子女学校嘱託教員となる。1943年、国画会員の中村博らと高知県洋画協会を結成、それが母体となった高知県展を指導し、その発展に貢献した。晩年は高知の土俗的、風俗的な画題で多く制作した。1951年、第2回高知県文化賞受賞。
日本画等 2点
油彩画等 28点
ドローイング 41点

山脇信徳《夕焼の日本橋》, 1917
土方久功(ひじかた ひさかつ) 1900-1977
東京都文京区に生まれる。土方家は土佐藩士出身、叔父、土方久元伯爵は宮内大臣等をつとめ、久元の孫、土方与志は新劇演出家で、築地小劇場(現在の俳優座劇場)を創設した。1919年、東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科に入学、在学中に土方与志邸にあった模型舞台研究所で与志と舞台美術等を研究。1924年、東京美術学校卒業。同年、川路柳虹(詩人、美術評論家)を訪問、翌年に創刊された川路柳虹主宰の月刊雑誌『炬火』に同人として参加(1928年の廃刊まで)。1929-42年、ミクロネシアのパラオ諸島に渡り、現地人と生活を共にしながら木彫や絵画を制作、「日本+南洋」の表現を作り出す。ミクロネシアでは、1929年にパラオ市庁から辞令を受けて島内の各学校で彫刻を教える。また現地で知り合った三河の大工、杉浦佐助の助力で滞在中にパラオの島々やサテワヌ島(7年間在住)で伝統芸術、神話や伝説の採集、遺跡、部落組織、結婚・酋長制度等を調査、当時の南洋を知るうえで貴重な資料を残している。太平洋戦争後は、日本アンデパンダン展、読売アンデパンダン展、新樹会展等に数多く出品、また個展を多く開催。さらに土方与志を通じて知り合った俳優座の関係者と親しみ、俳優をモデルに描き、また俳優座劇場に掲げるレリーフをはじめ数々の記念作品を制作。民族学分野に著作多く、『土方久功著作集』(全8巻、三一書房)等が出版されている。また『青蜥蜴の夢』『旅・庭・昔』『鶴と共に』等の詩集、『ゆかいなさんぽ』『ぶたぶたくんのおかいもの』『おによりつよいおれまーい』等の絵本を出版。その作品、著作等は南洋の表現が濃い。2001年、「高知ゆかりの彫刻家土方久功日本+南洋の表現展」(高知県立美術館)を開催。
油彩画等 9点
ドローイング 1,655点
工芸 4点
立体 「宿命の歩み」ほか149点

土方久功 《宿命の歩み》
今西中通(いまにし ちゅうつう) 1908―1947
高知県四万十町に生まれる。本名は忠通(ただみち)。県立城北中学校(現在の小津高校)在学中に絵画の勉強をはじめ、学校中退後に上京、川端画学校に学び、ついで一九三〇年協会研究所で里見勝蔵、野口弥太郎らの指導を受ける。1930年、第5回一九三〇年協会展に初出品、同会が発展した独立美術協会に参加し、1931年の第1回独立美術協会展から出品を始め、1935年、第5回展でD賞受賞。1936年に会友になる。また都新聞社(現在の東京新聞社)写真部に入社。1940年頃、肺結核を発病し、長野県の蓼科高原で療養。1941年、都新聞社を退社後、香川県坂出市に転居、療養を続けながら制作。1943年、第6回新文展に《母教(子供を抱く女)》を無鑑査出品。1944年、独立美術協会の準会員になる。1947年、独立美術協会の会員になる。激しい筆致と鮮やかな色彩を基調とするフォーヴィスムの画風から次第にキュビスムへと画風を変化させ、モノトーンの画面に球形が浮遊する独特のリリシズムを醸し出したが、晩年はセザンヌ風の平明な具象画へと移った。
油彩画等 「静物(青)」ほか42点
ドローイング 581点

今西中通 《緑の鳥》, 1940
石元泰博(いしもと やすひろ) 1921-
アメリカ・サンフランシスコに生まれる。1924年に両親とともに高知へ戻る。1939年に高知県立農業高校を卒業後、単身渡米。収容所生活を経験した後、1948年に通称ニュー・バウハウスでデザインや写真技法を学ぶ。1952年、イリノイ工科大学卒業。1953年に来日し、桂離宮に大きな感銘を受け撮影を始める。これが本格的に写真を始める契機となった。1954年、タケミヤ画廊にて初個展を開催する。1958年に渡米し、連日シカゴの街並みを撮影する。1962年からは東京綜合写真専門学校、桑沢デザイン研究所、東京造形大学などで写真教育に携わる。1969年に日本国籍取得。主な写真集として『ある日ある所』(1958年)、『シカゴ、シカゴ』(1969年)、『桂』(1970年)、『伝真言院両界曼陀羅』(1977年)、『HANA』(1988年)、『伊勢神宮』(1995年)などがある。主な個展歴として1962年「シカゴ、シカゴ」(日本橋白木屋)、1977年「曼荼羅展」(西武美術館)、1980年「睡蓮展」(国立国際美術館)、「記憶の現在展」(東京国立近代美術館フィルムセンター)、「シカゴ、東京展」(東京都写真美術館)、「伝真言曼荼羅展」(国立国際美術館)、2001年「石元泰博写真展1946-2001」(高知県立美術館)など多数。1993年に勲四等旭日小綬賞受賞。1996年に平成8年度文化功労者に選ばれている。2005年6月、紺綬褒章を受章。同年11月、高知県文化賞を受賞した。現在は渋谷の雑踏を行き交う人々の後姿をノーファインダーで撮影している。最新写真集は『シブヤ、シブヤ』(2007年)。
写真 5,564点
| シカゴ | 2831点 |
| 東京 | 855点 |
| 桂離宮 | 600点 |
| 伊勢神宮 | 285点 |
| 東京 山手線 | 269点 |
| 花 | 503点 |
| その他 | 221点 |

石元泰博 《シカゴ・シリーズ》から
(C)Yasuhiro Ishimoto
奥谷博(おくたに ひろし) 1934-
高知県宿毛市に生まれる。7歳頃より姉典子に絵の手ほどきを受ける。1958年、第26回独立美術協会展に初出品・初入選、以後出品を続ける。1959年、東京藝術大学油画科卒業。1964年、東京藝術大学油画科助手となる。独立美術協会展で独立奨励賞受賞。1965年、独立美術協会展で独立賞、須田賞を受賞。1966年、愛知県立芸術大学創立にともない講師となる。独立美術協会会員に推挙される。第1回昭和会賞受賞。1967年、第1回文部省芸術家在外研修員(現在の文化庁)となって欧州各地で研鑽に励む(1968年帰国)。1969年、愛知県立芸術大学助教授になる(翌年に退職)。1983年、第33回芸術選奨文部大臣賞受賞。1984年、第3回宮本三郎記念賞受賞、受賞記念展を開催。1985年、紺綬褒章受章。1992年には『奥谷博画集』を出版。現代日本美術展、安井賞展、日本国際美術展、「明日への具象展」、「今日の絵画展」、「私が私のスタイルです展」、十果会等数多くの展覧会に出品している。2005年、高知県観光特使に任命される。2007年、宿毛市初の名誉市民となる。「世界遺産条約採択35周年記念 奥谷博展-訪れた世界遺産」をパリのユネスコ本部で開催。
油彩画等 「画家と鴉」ほか4点

奥谷博 《画家と鴉》, 1974
日和崎尊夫(ひわさき たかお) 1941-1992
高知市に生まれる。1963年、武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)第二本科西洋画専攻卒業。1964年に帰郷後、恩地孝四郎の著書『日本の現代版画』等で木口木版画に関心を持ち、本格的に木口木版に取り組むようになる。1966年、日本版画協会展で≪星と魚≫≪星と植物≫シリーズが新人賞受賞。翌年には同展で《祈りと呪いのためのエチュード≫が版画協会賞受賞。1968年頃強度のノイローゼに悩まされた日和崎は、『老子』『法華経』を読むことにより“KALPA(カルパ)”の啓示を受け、以後≪KALPA≫シリーズの制作を続ける。1970年、第2回フィレンツェ国際版画ビエンナーレで≪KALPA-Ⅹ≫が金賞受賞。1974-75年にかけて文化庁派遣芸術家在外研修員としてヨーロッパに滞在。1975年、「1975現代の版画展」(栃木県立美術館)に出品。1977年、城所祥らと木口木版作家グループ「鑿の会」を発足。1982年、高知にアトリエ「白椿荘」を建て、以後高知で創作活動を続ける。1984年、「版画の今日展」(埼玉県立近代美術館)、1985年、「現代版画の軌跡展」(福島県立美術館)、1987年、「版画の表現と技法展」(町田市立国際版画美術館)等に出品。1990年、高知版画協会の設立や、高知国際版画トリエンナーレの創設にたずさわるなど、版画の発展に尽力した。1991年、第5回山口源賞を受賞し、今後の活躍を期待されたが、1992年に死去。1995年、高知県立美術館、渋谷区立松濤美術館にて大回顧展「日和崎尊夫-木口木版画の世界-」が開催された。
版画 「KALPA―X」ほか140点

日和崎尊夫《KALPA-X》













