龍馬が鉄砲の社長だったのかというお問い合せですが、龍馬は亀山社中(のちの海援隊)の隊長でした。この会社は貿易会社(武器も取り扱っていました)でもあり、海軍でもあり、様々なことが学べる研修機関でもあり、蝦夷(北海道)などを開拓も考え合わせる会社でもありました。このように、一言で言い表せる会社ではありません。
この亀山社中を使って、薩長同盟の一連として、薩摩藩名義で購入した武器や船を長州藩に売るということはしておりました。
@
いつ、どこで、誰が言ったかという質問に答えるのは難しいと思います。この写真はかなり以前から確認されている写真で、
昭和3年に桂浜に銅像が建立された時もこの写真をモデルに製作されています。今、当館で簡単に見ることの出来る本を開いてみると、1912年に発行された『維新土佐勤王史』(瑞山会編)や、龍馬と慎太郎の没後50年祭(1917年)の冊子にも掲載されていますし、おそらくそれ以前の本にも掲載されていると思いますので、いつ、どこで、誰が、ということなく、龍馬の写真ということは自明のことだったのだと思います。当時は維新の志士で存命の人が何人もいました。特に、土佐藩出身の田中光顕は龍馬たちが暗殺された現場に真っ先に駆けつけた人でもあり、当然龍馬と交流のあった人ですが、大変長生きをしていまして、1939年(昭和14年)まで生きていました。銅像の製作時にも関わっていましたし、瑞山会の筆頭で『維新土佐勤王史』にも関わっていました。この瑞山会には明治4年に龍馬の家を継いだ坂本直(龍馬の甥・高松太郎)も参加していました。この人は海援隊士で、1898年まで生きていました。こういう人たちが龍馬の写真として色々なものに掲載していた写真ですので、疑う余地はないと思います。手紙は残っていません。
A
何枚かという問いに答えるのは難しいですが、何種類かということなら6種類と言えます。どういう違いがあるかと申しますと、例えば福井で撮られた説のある写真ですが、名刺代わりに人にあげてたものなので、現在は下関市立長府博物館と東京龍馬会が同じ写真を所有しています。立ち姿のものも、ガラス原板は高知県立歴史民俗資料館が所有していますが、鶏卵紙に焼いたものは2枚以上確認されています(しかし、この鶏卵紙の写真は現在行方不明です)。鶏卵紙の写真は名刺代わりに人に渡していたので、全国にはまだまだ龍馬の写真が存在しているかもしれません。おそらく、どこかに眠っているものがあると思います。
以下、便宜上6種類を次のように表記します。
写真A=立ち姿の写真、桂浜の銅像のモデル(コロジオン湿板と鶏卵紙2枚が確認されている)
写真B=イスに座ってブーツを履いている写真(鶏卵紙1枚)
写真C=伊藤助太夫と使用人と撮った3人の写真(鶏卵紙1枚)
写真D=上半身だけの写真(所在不明の鶏卵紙1枚と複写されたと思われるものが3枚)
写真E=海援隊士と撮った写真(所在不明の鶏卵紙1枚)
写真F=縁台に座った写真(鶏卵紙2枚)
何歳から何歳までの写真かについては、確定はできませんが、おそらくすべて慶応元年から3年に撮られたものと推測されています。数え年で31歳〜33歳。
どこどこで撮影された、という定説が出てきた理由については、簡単に分かるのは、写真スタジオの特徴が出ている写真です。写真Aは、寄りかかっている台が上野彦馬スタジオの特徴で、他の人が撮った写真にも登場します。それから、上野彦馬スタジオには段差があります。写真A、写真B、写真C、これら3種類の写真の手前にはすべて段差が確認できます。それから、写真Dは、服装や髷の具合から写真Aと写真Bと同じ時に撮られたことが考えられていますので、スタジオも同じ上野彦馬スタジオだと考えられています。このように写真の背景からどこのスタジオか推測できます。いつ撮られたかもある程度は推測できます。
写真Eはよく分かっていませんが、可能性からすると長崎で撮った可能性が一番高いので、上野彦馬スタジオではないかと考えています。
写真Fは、背景に菊の花が写っていることから、撮った時期が秋頃と絞られます。また、額の生え際が少々後退しているようにも見うけられるため、長崎で撮られたものより後で撮られたのではないかと考察されています。となると、慶応3年の秋である可能性が強く、福井に行った時に撮られたのかもしれないと想像されています。ようするに時期的なことから推測したのです。しかし、これは推測の域を出ないものですので、信用することはできません。旅館名などは特定されていません。現在これらの写真を本格的に研究している方がいらっしゃいます。その方は、福井説は完全否定されています。その理由は本として出版する予定ですので、今ここで明かすことはできません。ちなみに、福井で龍馬が利用していた旅館は莨屋(たばこや)旅館ですが、今は残っていません。越前龍馬会の方々が研究の末、所在地を突き止め、現在は碑が建てられています。「よしだ」という懐石料理・仕出しのお店がありますが、その隣です(隣ではなく吉田さんの敷地内かもしれません)。この吉田さんも越前龍馬会の会員です。越前龍馬会のHPでも何らかの情報は得られると思います。
B
なんの為に撮ったのか、これらを示す龍馬自身が書いたものは何も残ってないです。
写真は、いろんな人に配っていたようです。当時の人は写真を名刺代わりに渡していたと言われています。龍馬の写真もあちこちの人(龍馬と関係のあった人の子孫)が所有していることから考えて、いろんな人に配っていたと思われます。当時写真を撮る時には簡単に言えば2種類の頼み方があったようです。アンブロタイプか種板の2種類です。当時どういうふうに頼んでいたかは分かりませんが、どちらかを指定することになります。どちらを頼むかによって、用途が違うし、金額も変わります。2種類がどういう違いがあるかを調べれば目的は自ずから想像できると思います。龍馬自身が書いたものが無い以上、そういうことから想像するしかないと思います。
なぜ長崎県まで行って撮影したのかについては、龍馬が作った亀山社中や海援隊のことはご存じなのでしょうか?「長崎県まで」と言いますが、龍馬は長崎の亀山という場所を拠点といていましたので、必然的に地元で撮影したものが多くなっただけだと思います。
龍馬は写真の代金をどうしていたのか?質問Cと関連しますが、長崎で撮られた写真はおそらく井上俊三が練習で撮ったのではないかと考えられています。そのため、代金は
正規の代金を払っていたか疑問を持たれています。
C
どこにあったかは写真によって違います。
写真Aは原板を井上俊三が所蔵していたようです。現在高知県立歴史民俗資料館にあるものは、井上家から高知県に寄贈されたもののようです。これについては、高知県の佐川町立青山文庫(せいざんぶんこ)館長の松岡司(まつおかまもる)氏の研究で明らかにされています。何号か忘れましたが、昨年か今年の初め頃に発行された『街』という雑誌(郷土ものづくり開発組合編集・問い合わせ先=はりまや橋商店街振興組合088−882−4174)に松岡氏がこのことについて書いております。松岡氏は以前からこの事を主張しておられました。原板を井上俊三の子孫が所蔵していたということは、上野彦馬が撮影したものではなく、井上が撮影したものだと考えられます。これもアンブロタイプと種板の性質の違いが関係してきますので、この二つの違いを把握しておいてください。Aの鶏卵紙については所蔵者が分かりません。『坂本龍馬全集』には伊藤盛吉氏所蔵の鶏卵紙が掲載されていますが、現在は不明です。もう一つ、雑誌『太陽』に掲載された別物の鶏卵紙も所蔵者不明です。この写真Aについては発見という言葉は適当でないと思います。以前からずっと確認されていた写真ですから。もともとの所蔵者は、湿板が撮影者の井上所蔵、鶏卵紙は不明。
写真Bは三吉慎蔵のご子孫が所蔵しています。こちらも発見する必要はないと思います。もともとの所蔵者は三吉慎蔵。
写真Cは、伊藤助太夫のご子孫が所蔵しています。こちらも発見する必要はないと思います。もともとの所蔵者は伊藤助太夫。
写真Dは、鶏卵紙については所蔵者不明です。しかし、複写されたものの一つは高知県の個人の方が所蔵しています。これは溝淵広之丞の従者の話が写真の縁に書き込まれています。溝淵の関係者が所蔵していたものかもしれませんが、明確には分かりません。他に、明治37年に昭憲皇太后に献上された写真も写真Dの複写だと言われますが、所蔵者を知りません。これはもしかすると宮内庁などに残っているのかもしれませんが、分かりません。
写真Eは所在不明です。複写されたものが現在も色々な雑誌などに掲載されています。もともとの所蔵者やいつ発見されたかは分かりません。
写真Fは、現在は東京龍馬会の個人の方と下関市立長府博物館が所蔵しています。もともとの所蔵者は分かりません。いつ発見されたのかは分かりません。
最後に一つ申し上げたいことがあります。上に書いたことは、私が調べて研究したことではありません。当館に置いてある様々な書籍を用いてまとめただけですので、本来はご自身が行わなければならないことです。論文に史料や誰かの研究の内容を引用する場合は、出典を明記しなければなりません。また上記の内容を論文に掲載すると孫引きという形になります。その点は充分気を付けて、この回答はあくまで参考にしてください。
(1)
慶応3年3月6日の印藤肇(いんとうはじめ)宛の手紙には、蝦夷(えぞ、北海道)の開拓のことを書いており、「新しい国を拓く(ひらく)のは前々からやりたいと思っていた自分のライフワークで、1人になってもやりとげたい」と書いていて、この時もチャンスをつくろうとしていましたし、文久3年(1863)から、元治元年(1864)にかけ、その実行ができる準備をしていましたが、仲間を池田屋事件で殺され、計画はダメになってしまいました。このようなことから、政治の争いの中にいるよりも、もっとスケールをひろげ、世界との貿易も考えに入れていたでしょう。慶応3年(1867)11月7日、陸奥宗光(むつむねみつ、有名な外務大臣になる人)にあて、「そのうちに世界のはなしができるようになるよ」ということを、たった1行ですが書き込んでいます。
(2)
@龍馬が暗殺された時、鞘(さや)で敵の刀をうけた。その刀は前の年、兄権平(ごんぺい)に、死ぬ時は先祖のものを持って死にたいといって送ってもらった吉行(よしゆき)の刀でした。龍馬が思っていたように、その刀は龍馬の手に握られて、死んでいく龍馬を見守りました。
A龍馬は手紙の中の日付を間違えて、ひと月先を書くことがあります。これは太陽暦(たいようれき、今のこよみ)を使っていたせいではないかと思います。
B龍馬が勝海舟の弟子になった文久2年から死ぬまでの約5年間に、船で動いた距離は、なんと2万km。これは年表に出てくる移動の距離を足したものですが、地球を半周もしているから、驚きですね。
龍馬の年表(1858年〜1861年)、この間は、全国的な活動をしていませんので、あまり載せることがないのです。
それでも、武市半平太の手紙を持って、勤王運動の先頭をゆく、長州の久坂玄瑞(くさかげんずい)のところへ行き、そこで各藩がつぶれても、国がだめになったら何にもならない。そのために志をもつものが、早く行動を起こさないと間に合わないと言って、次の年(1862年)3月24日、江戸へ旅立つのです。
平尾道雄著 新版「龍馬のすべて」(昭和60年発行、高知新聞社)P.71によれば、山内容堂は剣客を集めて剣道大会(御前試合)を行ったとあります。平尾さんの書いた試合一覧表は、1857(安政4年)の鍛治橋の土佐藩邸で行われたもので、審判員は神道無念流の斉藤弥九郎、鏡新明智流の桃井春蔵(代人が出ている)、北辰一刀流の千葉栄次郎ら五人で、出場した剣士は、坂本龍馬、桂小五郎など、有名な剣の使い手がずらりと並んでいます。(52試合の組み合わせがのっており、龍馬も桂も勝った事になっている。)この試合表は、平尾さんが土佐藩剣道指南役・石山孫六の養子から提供され、興味をひかれて「海援隊始末記」にはのせたものの、「山内家日記」には、この試合が載っていないこと、その他の剣士の中でその時江戸にいない人も居て、結局これは作りものであるらしいという判断に至りました。
ちなみに龍馬が高知へ帰ったのは、安政5年9月3日です。つまり試合はいろいろあったが、海援隊始末記に載っている御前試合の組み合わせはニセモノということです。
当館の展示物の中に、和英通韻伊呂波便覧(わえいつういんいろはべんらん)という本があります。発行は、龍馬もいた土佐海援隊ですが、発行年が慶応4年(明治元年・1868年)ですので、実際に龍馬は出来上がったこの本を見ていないはずですが、作る段階では眼を通しているかも知れません。この本は和英辞典のようなもので、ABCからはじまって、時計の見方、英語のことばなどをいれていますが、morning(朝)を「モネン」、evening(夕)を「エブネン」など、発音記号やふりがなつきで、わかりやすく大きな字で書かれています。なおこの本には、waterを「ワラ」と読む例は出てきませんが、ジョン万次郎の取調べの話に出てきたように思います。
「世の人はわれをなにともゆはゞいへわがなすことはわれのみぞしる」
なに=何
ゆはゞ=土佐では言うを、ゆうといいます
いへ=ところがこちらは言へとなっています
和歌を書いた龍馬の筆跡はこうなっています。龍馬記念館でも、複製を作っていますが、時折展示しています。原資料は、京都の国立博物館が所蔵しており、国の重要文化財(平成11年4月16日答申「龍馬詠草二 和歌」)の一つになっています。その写真をもとに書きましたので、上の通りで間違いありません。
※当館HPの通信販売のコーナーにあります、「龍馬の手紙(1000円)」P.558に掲載しています。
黒船が来た嘉永6(1853)年、龍馬は江戸の千葉定吉道場(北辰一刀流)で剣術の修行中でしたが、6月、土佐藩からの命令で品川に出て沿岸警備をしました。この時龍馬は、「黒船との戦いになったら、異人(外国人)の首を取っておみやげにする」という手紙を、父・八平(はちへい)に送っています。
1年の修行を終えて土佐に帰った龍馬は、黒船征伐の方法を聞くため、家が近くにあった河田小龍を訪ねます(1854年)。河田小龍は、漂流生活11年ののちアメリカから帰ったジョン万次郎の取り調べをしたので、外国の知識や蒸気船のこともよく知っていました。漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)という取り調べ記録(現在市販されている)もまとめていましたので、河田小龍ならわかるだろうと思ったのです。しかし、答えは「それは無理だ。土佐藩の軍船(いくさふね)では太刀打ちできない。それより龍馬自身が蒸気船を持って、それを使って仕事をすることを考えなさい。乗る人は、私(河田)が町人のせがれを教育して、龍馬のところへ送ってあげる。」と約束しました。龍馬はその教えを実現させるため、8年後、江戸へ出て勝海舟の弟子になり、海軍を創設します。
また河田小龍は、長岡謙吉、近藤長次郎、新宮(しんぐう)馬之助など、優秀なメンバーを神戸の海軍塾や、龍馬が隊長を務める亀山社中に送り、彼らも龍馬と共に明治維新を目指しました。
『薩長同盟について』
「いま何をすべきか。各藩の体面ばかり考え、国全体の事を考える事を忘れてはいけない。幕府を倒し新しい国(近代国家)にするためには、リードする大きな藩が対立していてはいけない。何が目的かを考えよう。」というような事で、薩摩の西郷と小松(家老)を、龍馬が徹底的に説得しました。(このことは、木戸孝允が龍馬へ書いた、1866年(慶応2年)1月23日付けのお礼状に書いてあります。)気長く自分の考え方を話してわかってもらったのがよかったでしょう。龍馬でなくても出来たかも知れませんが、龍馬は「この国を『日本』にしなければいかん」という事を、ずっと考えつづけていたので、説得力があったのでしょう。
『日本に与えた影響について』
龍馬が日本に与えた事は、「武力討幕」を避けるため、薩長同盟をバックにしながら、まず将軍が幕府を終わりにする事を決め、国内での戦いを避け、平和なうちに新しい国を誕生させるための、船中八策を示した事でしょう。
『郷士の権利について』
郷士坂本家は、本家の才谷屋坂本家から分家したもので、才谷屋三代目直益(八郎兵衛直益・ハチロベイナオマス)の時、郷士の株(権利)を買い求め、次の代の八郎兵衛直海(ハチロベイナオミ)に与え、分家させたという事です。「買い求めた・・・」という内容は、護受け郷士(誰かの権利をゆずりうける)か、郷士の募集に応じた(新規郷士)かは、よくわかっていません。
※『南国遺事』にある一文・・・財産を分かちて郷士職を購い。
「吉行」についてですが、刀剣の本などには載っていると思いますが、とりあえず高知県人名事典(高知新聞社 平成12年発行)に載っているものからご紹介します。
吉行(1650〜1710)刀工、通称、森下平助。吉国の弟として慶応3年、摂津国住吉に生まれた。成人ののち大阪の刀工・初代大和守吉道の門人となる。
やがて陸奥守の受領名をいただき「陸奥守吉行」または「吉行」の二次銘を切った。元禄年間土佐に招かれて鍛治奉行となる。現在の高知市仁井田に田地を与えられて住み、現在のはりまや橋に近い東種崎町(ひがしたねざきまち)の仕事場で刀を鍛えた。吉行の刀は新刀銘尽後集に「刀鋒鋭利南国新刀の冠たり、作は地鉄(ぢがね)細やかに匂い(におい)ありて上手なり」と評価されている。特に丁字刃の名人で直刃や涛欄刃などもあり、切れ味は土佐の刀では最も優れていた。龍馬は慶応2年12月、先祖のものを持って死に臨みたいと手紙を書いて、この刀を兄権平(ごんぺい)に頼んでゆずりうけることになった。権平は山内容堂と会うため土佐を訪れた。西郷隆盛にこの刀をことずけて、西郷は中岡慎太郎らに頼んで龍馬のもとに届けた。慶応3年3月頃からこの刀を大切にもって居たと見られ、龍馬はその喜びを慶応3年6月24日、兄権平宛ての手紙でも「京都の刀剣家が褒めてくれる」と伝えている。
つねに持っていたこの刀は暗殺された時、床の間にあり龍馬はそれを取って応戦。さやをはらう間もなく相手の刀をうけたが、さやに食い込んだ。敵の刀の先が龍馬の額を切り、龍馬は先祖の刀をもって息絶えた。
龍馬は維新後、何度も龍馬ブームによって復活します。
その最初は、1883(明治16)年です。坂崎紫瀾(高知出身)が書いた『汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)』が、高知の『土陽新聞』に掲載され、大評判となります。これは、自由民権運動に参加していた坂崎が、薩長に牛耳られていた明治政府に、忘れられた土佐藩の立場を再認識させる意味もあったようです。
それから、1890(明治23)年に勝海舟がまとめた『追賛一話』という資料が当館にあります。様々な歴史上の偉人について、海舟が一言コメントしたものですが、龍馬については、西郷を釣り鐘に例えた話を持ち出し、このような見事な例えができる龍馬もたいした人物だと書いています。さらに、「(坂本)氏の行った事業は既に世の中に広く知れ渡っているので、あえて褒め称えることはしない」と付け加えています。これによると、明治23年には龍馬は、全国的にかなり有名だったと考えられます。
次に龍馬ブームが起こるのは、日露戦争の時です。日本海でロシアのバルチック艦隊と戦う前に、龍馬が皇后陛下の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」というようなことを話したそうで、これが全国の新聞に掲載されました。皇后陛下はこの人物を知らなかったのですが、当時の宮内大臣の田中光顕(高知出身)が、龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになり、龍馬は一躍、海軍の神様となって脚光を浴びました。これも最初の坂崎と同じく、海軍は薩摩、陸軍は長州に牛耳られ、入る余地のない土佐が龍馬を利用したものです。
その次の龍馬ブームは、大正デモクラシーの時です。大政奉還の基となった船中八策の第二条目に、「万機宜しく公議に決すべき事」とありますが、これがデモクラシーの先駆と考えられます。さらに、大政奉還により平和的に倒幕を成し遂げた平和革命論者のイメージも定着します。
こうして、平和的なイメージが定着しつつあった龍馬ですが、昭和3年に桂浜に銅像が建立された時には、除幕式に海軍・陸軍両方の兵士が参列し、駆逐艦まで碇泊しました。さらに、第二次世界大戦中は県下の銅像はほとんど供出されたにも関わらず、龍馬と慎太郎は天皇のために働いた人物ということで、二人の銅像は残されました。
そして現代に至り、司馬遼太郎さんが『竜馬がゆく』で取り上げ、現代の龍馬ブームが起こりました。これまで、薩長同盟の立役者、自由民権運動の先駆者、海軍の先駆者、デモクラシーの先駆者、平和革命論者、尊王家など、色々な形で政治に利用されてきた龍馬を解放し、司馬さんなりの明るく自由な龍馬像を作り上げたことが、広く受け入れられた要因ではないかと考えます。以上のように、龍馬はそれぞれの時代で、様々な形で注目されていました。
龍馬たちを殺したのは、見廻組という説が有力ですが、誰が見廻組に指示を出したのかは分っていません。可能性が高いのは次の4つくらいになりますが、指示を出した人が誰かによって、理由がまったく変わってきます。
黒 幕 : @幕府(大政奉還によって幕府を倒された恨みと、寺田屋で龍馬を捕り逃がした恨み)
A薩摩藩(武力によって国を変えようとする薩摩と、平和的に変えようとする龍馬の意見の違い)
B紀州藩・三浦休太郎(いろは丸事件の恨み:海援隊の船と紀州藩の船が衝突し、海援隊のいろは丸が沈没したため、紀州藩は大金を払わされた)
C土佐藩(龍馬の提案した船中八策を受けて、土佐藩は大政奉還を成功させるが、その手柄を独り占めするため)
他にも色々言われていますが、@が一番可能性は高いように思います。
龍馬の生まれ年は、1835(天保6)年。その年の干支は、乙未(きのとひつじ)。『ひつじ年』です。辰でも馬でもなく、つまり龍馬は干支とは関係ない名前なのです。
下士の身分について、龍馬も常々矛盾を感じていたと思います。『新しい国をひらくのが私のライフワークだ』と手紙にも書き、蝦夷(北海道)の開拓を実現したいと考えていましたが、そうした差別のないテリトリーを創る意味もあったでしょう。
また、文久3(1863)年6月29日乙女宛の手紙には『土佐の芋ほりともいわれぬ居候に生まれて、一人の力で天下動かすべきは、これまた天よりすることなり』(芋ほりのような身分の低い郷士の二男坊という、兄に養われている僕でも、やり方によっては国の改革はできる。)と言っています。これも「身分は低くても頑張ってやれば・・・」というバネの力を表しています。実際にこのことが慶応3年6月、【船中八策】の発表として実現しました。これは、あの手紙を書く少し前に、越前福井で聞いた【国是七条】を龍馬なりにまとめ直したもので、《武力を使わず幕府が政権を朝廷に帰すこと》で新政府を作ることができれば、国力の低下を招くことなく、外国から侵略されることなく、新しい時代を迎えられることを示しています。「なんとしても内乱を避けないと、外国が入り込んでくる・・・」ということで、西郷や木戸も一旦は龍馬の考えに任せました。
この【船中八策】は【大政奉還建白書】となり将軍に提出され、慶応3年10月13日、将軍慶喜は《無条件で政権を朝廷に返す》ことを発表。ここで幕府は終止符を打ちました。
後藤象二郎は、この動きの中心となった人物で、龍馬も将軍へのルートは土佐藩を通らなければならないことを充分承知していましたので、慶応3年2月、長崎で会談した時、亀山社中のメンバーには「勤王党を弾圧した男(後藤象二郎も含む)を斬れ」という意見もありましたが、龍馬は「将来のことを話し合うべきだ」として、これを説得しました。 勝海舟の『江戸城無血開城』で、江戸が戦火から免れたのも、この考え方が西郷に理解されていたからでしょう。
土佐でも有数の大金持ち・・・であったかどうかは別として、本家の才谷屋(サイタニヤ)は、武士相手に金貸しなどをしていたため、明治維新で武士が滅亡すると、貸した金が戻らなくなり、たちまち没落。坂本家(龍馬の家)は残りましたが、龍馬の兄・権平(ゴンペイ)のあとを継いだ直寛(ナオヒロ・養子)の時代、北海道の開拓をすべく、明治31〜32年にかけ一家をあげて移住し、当初札幌の北、浦臼(ウラウス)に移り住みました。その後一家は札幌にも移り、いまでも本家は北海道です。高知の家はその後売却され、戦災にあって、いまはそのあとに病院が建っています。
龍馬の生家があった場所は、高知市上町(かみまち)1丁目(はりまや橋から約1.5キロメートル西へ電車通り沿いに行った所)の南側です。
現在、吉田茂元総理大臣の筆による「坂本龍馬先生誕生の地」という碑が立っており、その前の道端には龍馬の胸像が屋根にのっかっている電話ボックスもあります。生家は勿論、戦災で焼けて跡形もありませんが、そのあとには上町病院が建っています。
「良馬」という字が使われているものをあげますと、勝海舟「坂下良馬」(氷川清話より)、木戸孝允「坂本良馬」(何通かの手紙など)、などとなります。なぜ「良」の字を使ったのかは、りょうまの「龍」の字は「りゅう」と読むのが一般的なので、「りょう」と読むのが一般的な「良」の字を他の人は使ったのでしょう。また龍馬は、よく「りゅうま」と呼ばれる事がありますが、「りゅうま」という呼び方は明治16年に発行された龍馬の小説第一号「汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)」坂崎紫瀾(さかざきしらん)に、紫瀾がふりがなしたものが定着したと思われます。
しかし正しくは「りょうま」で当然本人(姪への手紙で「りょふ」)は勿論、付き合った人々もそう言っていました。
慶応3年1月20日付、姪・春猪(はるい)宛ての龍馬の手紙には、文末に『正月 廿日(はつか)夜 りよふより 春猪様』 と書いてあり、「りよふ」は、今の仮名遣いでは「りょう」と書きますので、「りょうま」となります。
龍馬の懐手については、一般に「鉄砲を持っている」「寺田屋で負った傷を隠している」「万国公法(本)を持っている」という3つの説がよく言われますが、本当のところはわかりません。
【龍馬とお龍の日本初の新婚旅行の場所】鹿児島県恰良郡牧園町の霧島山のふもと周辺を中心とした鹿児島
【場所の理由】薩摩の西郷隆盛や家老の小松帯刀(たてわき)たちが、薩長同盟のあと寺田屋で襲われてケガした龍馬に保養してもらおうと招待しました。このあたりは西郷や小松もよく利用していた所です。
【乙女宛ての手紙】
〇お龍のおかげで自分の命が助かったこと
〇お龍自身のこと(楢崎将作の娘、いま自分の妻、今年26才など)
〇薩摩旅行のあらまし
・日当山(ひなたやま)温泉や塩浸(しおひたし)温泉に行ったこと
・犬飼の滝の見事さ。塩浸で10日ばかりも泊まり、釣りをしたり、ピストルで鳥を撃って面白かったこと
・霧島山に登ったこと(絵入りで紹介)
【霧島神宮について】きり島の社は霧島神宮です。
【宮もものふり】=長い歴史を感じさせるお宮
【極とふとかりし】=大変立派な雰囲気があった
この旅行は慶応2年3月大阪から船で鹿児島へ行き5月末まで、ゆっくりと滞在しますが、帰り際には刀を作らせたり久しぶりに旅行を楽しみました。何日に何をしたかは、「龍馬手帖摘要」という文書に日記風に書かれてあります。
1835(天保6)年11月15日、郷士坂本八平直足の次男として高知城下本丁筋に生まれました。ちなみに亡くなったのは、1867(慶応3)年11月15日、京都近江屋で、中岡慎太郎といるところを刺客に襲われ、33歳の生涯を終えました。
この言葉は、『英将秘訣』の中の言葉ですので、龍馬の言葉ではありません。『英将秘訣』については、以前の回答を参照してください。このコーナーの一番下にあります。
1
東南東の方角を向いています。四国の地図で言いますと、芸西村や北川村を結ぶラインになります。なぜこの方向なのか、銅像建設の中心人物だった入交好保(いりまじりよしやす)さんが語っていますが、アメリカの自由の女神のように、海を眺めるように建てたかったそうです。龍馬は海と船が大好きだったので、海を眺めるのに最高の場所を選んだようです。
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龍馬は柔軟な頭脳と、人並みはずれた行動力を持っていました。それによって、誰も成し遂げられなかった薩長同盟や大政奉還を成功させます。薩長同盟や大政奉還が、よい方法だということを気付いていた人は、当時でも何人もいました。しかし、頭で考えることは出来ても、それを行動に移して成功させることが出来た人はいませんでした。それから、龍馬と同時代に生きた人たちの龍馬の評価を見ますと、龍馬は非常に度胸があって心が広く、器の大きな人間だったことが分かります。西郷隆盛は「度量の大、龍馬に如(し)く者、いまだかつてこれを見ず。」と語っていますが、これは龍馬ほど心の広い人を、いまだ見たことがない、ということです。他には、龍馬の手紙を読んでいますと、非常に優しいということと、ユーモアにあふれていることが分かります。こうしたことなどが、人気のひけつではないかと思います。
龍馬が所持していた短銃は、紛失と焼失により現存しません。寺田屋事件で使用し紛失したのが、@スミス&ウエッソン第U型(32口径)弾は六連発で、慶応元年に初めて持った短銃になります。大正2年の釧路大火で焼失したのは、Aスミス&ウエッソン第T1/2型ファースト・イッシュー弾は五連発で、近江屋暗殺の際も、所持していたものです。
龍馬記念館地下2階展示室では、龍馬所持の短銃の模型として、@スミス&ウエッソン第U型と、Aスミス&ウエッソン第T型(龍馬が死ぬまで所持していた第T1/2型とほぼ同じ長さのもの)をご覧頂けます。当HPの記念館所蔵品のコーナーでもご紹介しています。
職業はありません。当時は長男がその家を継ぐので、龍馬の兄権平(ごんぺい、龍馬とは21才差で、親子ほど年齢が違います)が、坂本家の家計をにぎっていたわけですが、龍馬は『居候』(いそうろう)となって、父や兄に養われていました。【長男が家系を継ぐ】というのが一般の慣わしで、二男からは居候という身分が多いのですが、そのままいつまでもは大変なので、他家へ養子にいってその家を継ぐとか、剣道などを教える道場を開いて独立する、自分の習得した技術で身を立てるなどしていたようです。龍馬は、勝海舟の門下生になってからは、その仕事で収入が得られましたし、亀山社中になってから(慶応元年1865〜)は、薩摩藩から3両2分(当時、1両=5万円程度なので3両2分は17万5千円ぐらい)をお給料として貰っていたようです。
質問1:坂本龍馬の性格はわかりますか?
@龍馬の手紙より
龍馬の性格を明確に知る事はできませんが、「文は人をあらわす」と言いますので、龍馬の手紙から性格を想像する事はできます。龍馬の手紙は、ユーモアにあふれ、温かみがあり、以外に細かい事までよく覚えていたり、細かい指示を出したりしています。これらを総合して考えてみますと、龍馬の性格は明るく、優しく、非常に細やかな心配りのできる、行き届いた心の持ち主の性格ではないかと想像します。
A龍馬と関わった人物より
薩長同盟の後、寺田屋で襲われた時、龍馬とともに戦った長州藩出身の槍の達人・三吉慎蔵が、龍馬の人柄について語っていますので、引用します。
「問 坂本ノ人ト為リハ過激ノ方ナルヤ。」
「答 過激ナルコト豪モ無シ。且ツ声高ニ事ヲ論ズル様ノコトモナク至極オトナシキ人ナリ。容貌ヲ一見スレバ豪気ニ見受ケラルルモ、万事温和ニ事ヲ処スル人ナリ。但シ胆力ハ極メテ大ナリ。」
ということです。
西郷隆盛が龍馬の人柄について語った次のような言葉もあります。
「天下に有志あり、余多く之と交はる。然れども度量の大、龍馬に如〔し〕くもの、未だ曽〔かつ〕て之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」
というように、龍馬は西郷にここまで言わせるほどの、非常に心の広い人物でした。龍馬を慕っていた陸奥宗光などは、頭が良すぎて人を馬鹿にするようなところがあり、人から嫌われることが多かったようですが、龍馬という人は、そういう人でさえも温かく包みこめるだけの大きな器の人でした。
B生まれ育った環境より
龍馬の性格には、生まれ育った環境にも大いに関係あると思います。龍馬の家は高知城下のすぐ西の上町にあり、その上町は商人と職人がおもに住んでいましたが、郷士の家もありました。要するに、士農工商の農民以外の身分の人々が混在する町だったのです。その中で育つ事によって、饅頭屋の息子(近藤長次郎)とも親しくすれば、鍛冶屋に出入りする事もあったと考えられます。こういう環境によって、海援隊士の給料が3両2分と隊長から兵隊士まで皆同じというように、分け隔てのない、平等な考え方が育まれていったのではないかと思います。
このような龍馬の性格を生かし、
*優れた感性:変化や問題点を見逃さず、関心を持つひらめきがある。
*やさしさ:「争い」よりは「和」。ひとへの思いやりを持つ。
*目標を立て実現させる。(チャンスを持ち、下地をつくり、仲間とともに)
につながったと思われます。
質問2:龍馬と京都のかかわった場所(住所、地名、建物名)と、様子を詳しく教えて下さい。
龍馬が京都でかかわった場所、その時の様子を知っていただくには、書籍:『龍馬軌跡』 著者 宮地佐一郎氏(旺文社版)に一連の京都のゆかりの地が載っていますので、そちらを見ていただいたら、分かりやすいかと思います。お手数ですが、書店や図書館で見
てみて下さい。
普通、武士と呼ばれる人達は2〜3の名前を持っていました。
@子供の頃から普段呼ばれている名 『幼名、通称』=「龍馬」
A正式な手紙などの署名に使用する名 『実名、諱』=「直柔」
B絵や詩を書いた時などに使用する名 『号』=「自然堂」
*追われる身の為、隠れみのとする名 『変名』=「才谷梅太郎」等
「直柔」(なおなり)とは、戸籍に登録する名前、実名にあたります。武士は元服の時にこの『諱』(=【いみな】その人の生涯の幸福を祈って好い音義の字を選んで用いたようです)をつけてもらうようですが、龍馬がいつ元服したのかわかりません。
最初は「直陰」(なおかげ)と名付けたようで、慶応元年12月頃(龍馬31才頃)までは、この「直陰」を使っていたようです。「直柔」に変わるのはそれ以後のことと思われますが、いつ変えたのかは資料として残っていないので、はっきりとは分かりません。
龍馬の手紙は、現在136通が確認されていますが、「直柔」という署名を使った手紙は慶応2年10月5日が最初のようです。諱を署名した手紙は、「直陰」=4通、「直柔」=9通しかないので、一般的にはあまり使わないのが普通だったようです。
なお、坂本家の6代目以降の男子は皆、「直」の字が付けられています。【9代目=龍馬の父は「直足」、10代目=龍馬の兄は「直方」】
『諱』を付けることは一部の武家、公家の慣習です。女子に付けられることもあったようですが、乙女やお龍には諱はありませんでした。
武家、公家制度が廃止された明治には、この風習もなくなったということになります。
龍馬の和歌は10数通ありますが、漢詩はありません。書軸などであったとしても、それは本物ではない可能性が強いです。龍馬以外では、勝海舟が龍馬の死後15年経った時、龍馬をしのんで詠んだ四行詩を残しています。参考までに、その時の勝海舟の漢詩を書きだしてみます。
「日月如転丸(日月は転丸の如し)
追想豈漠然(追想、豈漠然たり)
一龍蓋棺後(一龍、棺を蓋って後)
既過十五年(既に十五年を過ぐ)」
<参考資料>『龍馬百話』著者:宮地佐一郎氏
近江屋で襲われた時、鞘のまま敵の刀をうけとめたのは吉行の刀です。これは坂本家が大切に持って居て、明治31年一家が北海道へ移住した時も持って行きました。北海道では坂本龍馬遺品展覧会などをやっていました。その中に切り込まれた刀の鞘(龍馬写真集にも載っている)も展示され、死ぬまで持っていた小型(長さ17センチ)のピストル、鞘から出した刀なども写真に写っていましたが、残念ながら大正2年12月釧路の大火に遭って焼けてしまいました。
国立京都博物館の鞘はのちにつくったもので、その鞘には大正2年の火災のことを書いてあります。刀は焼けたものを展示してあるはずですが、何かの時に入れ替わってしまったという噂もあって重要文化財指定から外れたということです。
龍馬がお龍と知り合ったのは、文久2年(1862)7月お龍の父親が、勤王運動の取り締まり(安政の大獄)で捕まり、獄中で病死した後になります。お龍は一家を支えるため仲居として働き、文久3年(1863)2月、(龍馬28歳、お龍23歳)その店を訪れた龍馬と親密になり、元治元年(1864)龍馬と内縁関係になり、この年龍馬は寺田屋のおかみお登勢に頼んで、お龍を養女にしてもらい寺田屋で働くようになりました。慶応元年(1865)9月9日の姉乙女へ宛てた手紙の中で、龍馬はお龍に渡すものとして、小笠原流の礼儀の本、詩の本、乙女姉さんの帯か着物をねだっています。慶応2年(1866)1月23日夜、薩長同盟を結んだ後、寺田屋でくつろいでいた龍馬が伏見奉行所の人達に取り囲まれた時、それを早く知ったお龍が風呂から飛び出して龍馬に「急」を伝えたため、龍馬は捕まらずに逃げる事が出来ました。命の恩人となったお龍と龍馬は、この事件の後結婚しました(慶応2年3月頃)。龍馬が死んだ後、土佐にきたお龍は坂本家に入りますが、周り中知らない人で、暮らし方も違うことから、次第に嫌になり、芸西村(高知から東へ車で45分位の所)に嫁いできていた妹君枝のところに立ち寄り、もう土佐はおしまい・・・。新しい気持ちで立ち直ろうと手紙を焼いて過去を清算したかったのでしょう。
京都市東山区の霊山(りょうぜん)墓地{現在の護国神社の裏山}に葬られました。この時、海援隊や龍馬を支持する仲間たちが、暗殺現場の河原町三条下ルから葬列を組み、墓地へ向かったといいます。尚、墓地には龍馬のほか中岡慎太郎、下僕藤吉のお墓も並んでいます。
遺族は、妻お龍が龍馬暗殺当時下関にいましたが、4ケ月余り後、慶応4年(明治元年)4月から土佐の坂本家に行きました。明治2年夏まで1年余りいましたが、生まれ故郷の京都へ帰り江戸へ出ますがその後、西村松兵衛と再婚し、横須賀で死去。お墓は同市信楽寺(しんぎょうじ)にあります。
1
龍馬はまず、力の有る薩摩藩と長州藩を結びつけることによって(薩長同盟)、幕府に対抗できる大きな勢力を作り上げました。そして、最新式の武器を長州藩に運びました。その際に、共に協力をしあった人は、薩摩藩では、西郷隆盛・小松帯刀(こまつたてわき)、長州藩では、桂小五郎・高杉晋作などがいました。
2
高杉晋作は龍馬が暗殺される前に死んでしまいますが、他の人とは協力しあう関係は変わりません。
3
憲法の制定や、議会の開設など制度の面では、近代的な国家を目指して、着実に前進しつづけた明治政府ですので、龍馬も不満はないのではないかと思います。しかし、それらを行う政府の指導者は、いつまでたっても「藩閥政府」と呼ばれたように、薩摩藩と長州藩の出身者ばかりでした。「平等な世の中」を作りたかった龍馬としては、理想の世の中とはだいぶ違っていたのではないでしょうか。
また、明治時代は世界的に帝国主義(他の国に戦争を仕掛けて侵略していくこと)が流行し、日本もその流れに乗って、朝鮮や中国を侵略していきます。これは平和を愛した龍馬の考え方とはかけ離れたものですので、龍馬は、間違った方向へ進んで行く明治政府を苦々しい思いで見ると思います。
【三浦学芸員回答】
1
龍馬が尊敬していた人ですが、龍馬の手紙の中に何人か名前が挙がっていますので、まずはそれを紹介します。
◎ 1863(文久3)年3月20日、姉・乙女宛て(脱藩後最初の手紙)
「(前略)今にてハ日本第一の人物勝憐太郎〔りんたろう〕殿という人にでしになり(後略)」
※ 本当は勝麟太郎が正しい字ですが、勝海舟のことです。
◎1863(文久3)年5月17日、姉・乙女宛て
「此頃は天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候(後略)」
その他に、1866年12月4日に、家族一同に宛てた手紙では、「天下の人物」について書いていますので、それも紹介します。
「当時天下の人物と云ハ、徳川家ニハ大久保一翁〔いちおう〕(大久保忠寛〔ただひろ〕)、勝安房守〔あわのかみ〕(勝海舟)。越前にてハ三岡八郎(由利公正)、長谷部勘右衛門〔はせべかんうえもん〕。肥後ニ横井平四郎(横井小楠〔しょうなん〕)。薩摩にて小松帯刀〔たてわき〕。西郷吉之助(西郷隆盛)。長州にて桂小五郎(木戸孝允)。高杉晋作」
龍馬はこの9人のことを「日本の中で大変優れた人」と考えていたようです。特に、大久保忠寛、勝海舟、横井小楠の3人は龍馬の先生として色々な事を教えてくれた人ですので、龍馬は非常に尊敬していたようです。
・ 大久保は幕府の役人ですが、早くから大政奉還を考えており、勝海舟や龍馬に影響を与えた人です。
・ 横井小楠は、龍馬の「船中八策」のヒントとなる「国是七条〔こくぜ〕」を考えた人です。
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現代では、国=日本ですが、昔は国=藩(龍馬の場合、土佐藩)という考え方でした。その頃から英語を勉強して、世界を相手に貿易をしようと考えていた龍馬ですから、龍馬が現代にいたとしたら、日本という小さな枠の中にとらわれることなく、世界を舞台に活躍すると思います。もしかすると世界どころか、宇宙へ飛び出しているかもしれません。
また、龍馬は新しいものが大好きで、情報に対しても人一倍敏感でしたから、コンピューターを駆使して、私などでは考えもつかないくらい進んだことを考え出しているかもしれません。
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龍馬は子どもの頃、乙女姉さんと一緒に、2番目のお母さんが前に住んでいた、種崎〔たねざき〕にある川島家へ、船に乗ってよく遊びに行っていたようです。種崎は浦戸湾の出口の東側にあり、西側には龍馬の銅像がある桂浜があります。龍馬の家からは、陸上を進むと15kmくらいあり、結構遠い距離ですが、ボートのようなものに乗って、鏡川をくだれば、おそらく30分もかからないと思います。
また、川島家は土佐藩の御船倉〔おふなぐら〕の商人で、下関や長崎へ度々行っていたようです。
このように、龍馬は小さい時から海や船に親しんでいましたので、自然と海や船が好きになったのではないかと思います。「外国にあこがれていたから」ではなく、逆に海や船が好きだったから世界の海に出て、外国へ行きたかったのではないかと思います。
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龍馬が行きたかった国は残念ながらわかりません。これは私の想像になりますが、江戸幕府は鎖国をしていましたが、オランダと中国とは長崎を通じて貿易をしておりました。そのため、江戸時代の人はオランダ語を勉強する人が多かったのです。しかし、龍馬は海援隊の中で英語を勉強していましたので、イギリスやアメリカに興味があったのではないでしょうか。また、龍馬は長崎で亀山社中という会社を作り、トーマス・グラバーというイギリス人と親しくしていたようですので、この点から考えても、イギリスへの興味はあってもおかしくはないと思います。
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龍馬の性格ですが、生まれ育った環境は大いに関係あると思います。まず、どういう性格だったかですが、薩長同盟の後、寺田屋で襲われた時、龍馬とともに戦った長州藩出身の槍の達人・三吉慎蔵が、龍馬の人柄について語っていますので、引用します。
「問 坂本ノ人ト為リハ過激ノ方ナルヤ。」
「答 過激ナルコト豪モ無シ。且ツ声高ニ事ヲ論ズル様ノコトモナク至極オトナシキ人ナリ。容貌ヲ一見スレバ豪気ニ見受ケラルルモ、万事温和ニ事ヲ処スル人ナリ。但シ胆力ハ極メテ大ナリ。」ということです。他にも龍馬の手紙から分る性格は、非常に細かな点にまで気配りができる、行き届いた心の持ち主であること。また、海援隊士の給料が3両2分と隊長から平隊士まで皆同じというように、分け隔てのない、平等な考えを持った人ということが分ります。龍馬の家は高知城下のすぐ西の上町にあり、その上町は商人と職人がおもに住んでいましたが、郷士の家もありました。要するに、士農工商の農民以外の身分の人々が混在する町だったのです。その中で育つ事によって、饅頭屋の息子(近藤長次郎)とも親しくすれば、鍛冶屋に出入りする事もあったと考えられます。こういう環境によって、平等な考え方が育まれていったのではないかと思います。
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これは全く分りませんし、想像もできません。
7
西郷隆盛が龍馬の人柄について語った次のような言葉があります。
「天下に有志あり、余多く之と交はる。然れども度量の大、龍馬に如〔し〕くもの、未だ曽〔かつ〕て之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」
というように、龍馬は西郷にここまで言わせるほどの、非常に心の広い人物でした。龍馬を慕っていた陸奥宗光などは、頭が良すぎて人を馬鹿にするようなところがあり、人から嫌われることが多かったようですが、龍馬という人は、そういう人でさえも温かく包みこめるだけの大きな器の人でした。私は龍馬のそういう心の広さに惹かれます。
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最後は特に長くなりますが、寺田屋のお登勢〔おとせ〕の実娘・殿井力〔とのいりき〕が語った龍馬の話がおもしろいので好きです。『今日は雨が降るから、私(龍馬)が一つ、怪談噺をやろう。』と、私達を、ズラリと前へ坐らし、咳(せき)一咳して、話始めらる。『さて、世の中は、化物幽霊と云うものは無いとも限らぬ。死んだ女房のかたみとて行灯〔あんどん〕に渡せし針の穴・・・・、嗚呼小供〔こども〕を残して、女房に死なれる程、困却〔こま〕るものはない。死ぬ者の身になっても、跡に念が残る。私の国で、矢張り、小供を遺して死んだ女がある。スルと、丁度、今夜のやうに、雨のしとしとと降る晩、小供に乳を呑ませようとて、母の亡霊が、行灯の傍へ、スーッと出た・・・・』と唯さへ怖い顔を、一層怖い顔をして、両手を前へ垂れて、『お化け!』と中腰になると、実に凄い。階下〔した〕から、母(お登勢)が上がって来て、『騒いではいけない。此のお客の居ることが、世間へ知れては困るから・・・・』といへば坂本先生は、『なァに構ふものか、知れたら知れた時だ』と、済していられる。維新前後の志士は、扮装〔なり〕にも振りにも構はず、ツンツルテンの衣服で、蓬頭垢面〔ほうとうこうめん〕の人が多かった。坂本先生も書物などには幣衣〔やぶれころも〕をまとひ、破袴〔やぶればかま〕を穿く〔はく〕、などと書いてあるが、大間違いで、実は大の洒落者でありました。袴は、何時も仙台平、絹の衣類に、黒羽二重の羽織、偶〔たま〕には、玉虫色の袴など穿いて、恐ろしくニヤケた風をされる。中岡慎太郎さんは、又些とも〔ちっとも〕構はぬ方で、「坂本は、何であんなにめかすのか、武士には珍しい男ぢゃ」と、よく言い言いされました。
長くなりましたが以上です。ユーモアがあり、物事にこだわらず、大らかな龍馬ですが、以外にオシャレには気を配っていたようで、おもしろい話だと思います。
【小椋館長回答】2と7のみ
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現代と龍馬の時代とは、社会のしくみ(政治や経済のしくみ、世界とつながり、人々のかかわり方、考え方などが大きく違いますので、龍馬一人で、スーパーマンのように動くことはできないと思います。龍馬が暗殺される1867(慶應3)年には、薩摩や長州などの考え方や行動によって、龍馬の理想的な考え方は制約を受ける方向に向かいます。暗殺10日前「新政府綱領八策」「新官制擬定書」などを書き、新しい国の仕組みを示しましたが、その精神が完全に活かされたとは言えません。「孤立」さえ感じます。現代と龍馬を考える時、この部分が心配です。然し反面、国のあり方についての関心を示す道が、当時はほんの一部の人しか与えられておらず、一部の人だけで国を動かせましたが、今は違いますので(無関心という層が多いのは問題ですが)、かえって「孤立」は避けられるとも言えます。
▲さてお答えですが:
活躍の舞台・・・・世界。
その理由:『新しい国をひらくことは、龍馬一生の願い』。「国盗り」ではなく理想の社会をつくることで、EUのような国家連合体を考えると分かりやすい。
活躍のジャンル・・・経済、貿易が主体だろうが、単なる金銭的な事業の成功ではなく、解決すべきテーマを持っての展開をする。
その理由:亡くなる前の言葉『世界の海援隊でもやりますかナ』龍馬の行動の原点は「将来の目標のためにいま何をすべきか」だったから。
7
龍馬の好きなところ:
〇優れた感性:変化や問題点を見逃さず、関心を持つひらめき。
〇やさしさ :「争い」よりは「和」。ひとへの思いやり。
〇目標を立て実現させるところ。(チャンスを持ち、下地をつくり、仲間とともに)
江戸行きが誰の意志だったかは、明確には分りません。しかし、単純に想像すれば父・八平の意志だったのではないかと思います。この当時、家は普通長男が継ぎ、財産もすべて長男が相続する事になっていました。次男以下はどこかに養子に行くか、芸で身を立てない限り、一生居候として過ごす事になり、兄のやっかいにならなければなりません。龍馬の場合、14歳から始めた剣術が性に合っていたようで、めきめきと腕を上げます。こうなると、父親は「剣で飯が食えるようにしてあげたい」と考えても不思議は有りません。しかし、江戸へ修行に出してあげられるというのは、かなりの財力があったから出来たことです。龍馬がどんなに江戸へ修行に行きたくても、1年以上も江戸に滞在するには莫大なお金がかかります。それを許可したのはまぎれもなく父・八平です。
次に他の要素を考えてみますと、龍馬には開明的なアドバイスをしてくれる人が周りにいたことが分ります。先日、60年ぶりに発見された1863(文久3)年8月19日・川原塚茂太郎〔もたろう〕宛ての龍馬の手紙に、次のようにあります。
「(前略)又兼て雅兄か御論にも土佐一国にて学問致し候へは一国たけの論がいで世界を横行すれば又それたけの目を開き自ら天よりうけ得たる知を開かずばならぬとは今に耳に残り居り申し候。(後略)」
川原塚茂太郎は、兄・権平の妻の弟で、龍馬にとっては義理の兄にあたります。茂太郎は、「土佐一国で学問をしていたら、限られた知識しか得られないが、世界を横行すれば、世界の知識が得られる。天から授かった能力を大いに活用しなければならない。」と龍馬に語っており、龍馬はこの言葉がずっと耳に残っていたようです。「狭い土佐から出て、大いに見聞を広めなさい。」ということです。龍馬は金銭的な面でも、人の面でも恵まれた環境にあったのだと思います。
最後になりましたが、河田小龍といつ会ったかですが、これは1回目の江戸留学が終わってからになります。1854(安政元)年6月23日(20歳)に高知へ帰省し、この年の秋に小龍を訪ねます。正確な月日は分っていません。そして、1856(安政3)年8月20日(22歳)再び江戸へ向かいます。
確かにそのような言い伝えが残っており、多くの伝記書や研究書で「明智後裔説」が紹介されています。
明智左馬之助光俊の子孫か?ということについては、明治16年に坂崎紫瀾が龍馬を主人公にした『汗血千里駒』という本を書いており、これが「明智後裔説」の初出の書物になります。その中の一節に、「そもそも坂本龍馬の来歴を尋るに、其祖先は明智左馬之助光俊が一類にして、江州坂本落城の砌り遁れて姓を坂本と改め、一旦美濃国関ヶ原の辺りにありしが、其後故ありて土佐国に下り遂に移住て」とありますが、坂本家の資料の中には、明智家との血縁関係を示す資料が残されていないため、坂本家と明智家との関係は分りません。しかし、言い伝えとして坂本家の中に受け継がれているようですので、資料が無いからといって、坂本家の縁者以外の人が否定できる問題でもないと考えております。そこで当館では、「こういう説もあります」という程度でご紹介しています。
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坂本家の先祖が、なぜ土佐まで移住したのかということは明確には分かりませんが、南国市にある坂本家初代の太郎五郎の墓には、「弘治永禄の頃(1555年〜1570年)畿内の乱を避け土佐の国殖田郷才谷村に来り住む」とありますので、これを正確なものと考えると、応仁の乱(1467年〜1477年)以降混乱を極める畿内を避けて土佐に避難してきたと考えられます。太郎五郎より少し前になりますが、現在の高知県中村市に、当時関白であった一条氏が戦乱を避けて1468年に移り住んでいます。
また、明智の血縁であった場合は、別の可能性が考えられます。明智光秀の甥で同家の重臣に斎藤内蔵介利三(くらのすけとしみつ)という人物がおり、長宗我部元親の妻はこの人物の異父姉になります。山崎の合戦で、明智光秀や斎藤利三が戦死した後、利三の次男と娘の福は母とともに元親夫妻を頼って土佐に落ち延びてきます。この福は後に徳川秀忠に召し出され、家光の乳母として有名な春日局になります。
この話から考えても坂本家が明智家と血縁関係があったならば、長宗我部元親を頼って、海を越えて土佐に来てもまったく不思議はないのです。ただ、もしそういう縁を頼って落ち延びてきたのであれば、才谷村のような山間部ではなく、平野部でそれなりの領地を与えられていてもおかしくはないので、そのあたりでも明智後裔説は疑問視されているようです。
龍馬はアメリカは勿論、一度も海外へは行ったことがありません。
しかし、先日60年ぶりに発見された川原塚茂太郎宛書簡には、海外にたいする思いが次のように語られています。
「(前略)其文にも勢によりては海外に渡り候事も、 これ有るべき故猶さら生命も定兼候と。(後略)」
この書簡は、義理の兄(兄嫁の弟)に出した書簡ですが、兄・権平に自分(龍馬)が土佐へ帰ることは期待せず、早く養子を迎えるように伝えてほしいという思いを書いた手紙です。その中で、自分は海外へ行くかもしれないとほのめかしているのです。
このように、龍馬は海外へ行きたいという夢は抱いておりましたが、残念ながらその夢がかなうことはなかったようです。
残っている紋服などから以下の様に想像されます。
身長=173cm 体重=約80kg
以下、紋服の寸法です。
着丈=149cm 肩巾=32cm 袖丈=50cm 袖巾=33.5cm 裄丈=65cm 前巾=26cm 後巾=30.5cm
実際のスリーサイズまではわかりませんが、ご参考になさって下さい。
子どもの頃は分かりませんが、青年時代には、龍馬は土佐の仲間たちから“痣(あざ)”とよばれていたということが、明治以降の小説や研究書に出てきます。痣(あざ)とはホクロのことですが、龍馬の妻であるお龍が、龍馬の死後に語った言葉に「龍馬は眉の上に大きなイボがあり、顔にはホクロがボツボツあった。」というのがあります。
この言葉は、館長をはじめ職員一同聞いたことがありませんし、龍馬関係の本をいくつか調べてみましたが、見つかりませんでした。どなたかご存知の方がいらっしゃれば、お教えください。
「西郷伊三郎」さいごういさぶろう(手紙の宛名として使用)
「才谷梅太郎」さいだに(さいたに)うめたろう(手紙によく使用)
「自然堂」じねんどうかじぜんどう(自分の居た下関の家の名前)
「取巻の抜六」とりまきのぬけろく/慶応2年11月(手紙に出てくる)
「大浜涛次郎」おおはまとうじろう/慶応3年5〜6月(手紙に出てくる)
「高坂龍次郎」たかさかりゅうじろう/慶応3年2月(手紙に出てくる)
変名としては、こんなところです。
普通武士は、月代(さかやき)といって頭の中心部を剃り、両端に残った髪の毛を真ん中の後ろの方の髪の毛と束ねて元を締め、その先を頭の上にのせてまげにします。龍馬は月代を作らず、髪全部を後ろに束ねてしばり、そのままにしているか、束ね紐でまげをしているかどちらかで「総髪」(そうはつ)と言っています。龍馬は浪人という自由な身だったので、まげを自由にしていたのではないでしょうか。なお、まげは藩によっての違いは無く、身分での違いもないと思われます。
龍馬研究の本は色々出版されており、私達でも迷うくらいですが、次の4冊をお勧めします。
・ 土居晴夫氏著 『坂本龍馬とその一族』 (新人物往来社)
・ 山田一郎氏著 『坂本龍馬 ― 隠された肖像 ― 』 (新潮社)
・ 平尾道雄氏著 『坂本龍馬 海援隊始末記』 (中公文庫)
・ 新事物往来社編 『共同研究・坂本龍馬』 (新人物往来社)
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さらに挙げるとすれば、
・ 池田敬正氏著 『坂本龍馬』(中公新書)
・ 平尾道雄氏著 『龍馬のすべて』(久保書店)
・ 飛鳥井雅道氏著 『坂本龍馬』(福武書店)
以上の3冊になります。またこの他にも沢山良い研究書もございます。ぜひ色々な本をご覧になってみて下さい。
龍馬はお龍と結婚はしましたが、子供はいませんでした。他の女性との間にも子供はいません。ただ、養子として、明治4年8月に龍馬の姉、千鶴の息子「高松太郎」が朝廷の沙汰により坂本龍馬の跡目を相続し、坂本直と改名しました。
外国では龍馬はあまり知られていないでしょう。1950年〜60年代にアメリカの学者で中国や日本を研究したマリアス・B・ジャンセンさん(現在80歳くらいで、元プリンストン大学の教授)が「坂本龍馬と明治維新」という本を英文で出しています。(日本語訳は時事通信社)外国人としては世界ではじめて龍馬の研究をした人で、大変詳しい方です。日本にもよく来られ高知でも色々調べています。最近では、アメリカ人のロミュラス・ヒルズボロウさんが「Ryoma」という英文の小説を出しています。読みやすく・わかりやすい本で「龍馬を知らない外国人が多すぎる・・・」と言って悔しがっていたようです。
龍馬という名前ですが、これは、わかりかねます。「龍」は伝説の動物ですから当時でもこの字を使う名前は珍しかったのでは・・・
ちなみに、過去1年間に当館に入館されてメッセージを残してくれた方の中に「龍馬」・「竜馬」という名前の方が6人いらっしゃいました。
龍馬が人を切ったという資料は、今のところ一点も見当たりません。しかし、寺田屋で戦った時には、ピストルで応戦をし、奉行所の役人を撃っています。刀は人を切るために抜いてはいませんが、脱出の時に使ったようです。「寺田屋から逃げる時、裏の家の戸や建具などを槍や刀で壊して通れるようにした。なかなか丈夫な家で壊しにくかった・・・」と龍馬が兄の権平宛に手紙(慶応2年12月4日)を書いています。
血痕のある屏風・掛け軸(京都国立博物館蔵)についている血痕を調べれば(DNA鑑定)わからないことはないと思うのですが、実際には調べていません。複数の人の血が混じっているからなのか、重要文化財が傷むからなのかいまのところ答えは「わからない」です。
龍馬の家紋(坂本家の家紋)についてですが、名称は、「組み合わせ角に桔梗紋(くみあわせかくにききょうもん)」といいます。この紋章は土岐氏の系脈に多い桔梗紋の一種で、単弁の桔梗紋です。
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坂本家の家紋に付いてですが、坂本家6代目・坂本直益の死後、13年経って亡くなった直益の妻・さわの墓に付いているものが、確認できる最初のものになります。直益までは「丸に田紋」を用いていました。直益の長男・直海を分家させて、郷士坂本家が誕生しますので、その際、郷士坂本家用の家紋を作ったと考えると、時期的に近いので丁度良さそうなのですが、断定できるまでには至っておりません。桔梗紋は美濃の土岐氏が用いていた家紋で、美濃地方に多い家紋になります。同じ美濃出身の明智家も桔梗紋で、明智後裔説のある坂本家も桔梗紋にしたとも言われていますが、実際のところは分りません。
一般的に言われている説では、1866年(慶応2年)頃に、長崎の上野彦馬によって撮影されたということになっております。
上野彦馬は、幕末当時、“東の下岡蓮杖”、“西の上野彦馬”と並び称された名写真家の一人でした。その上野彦馬の弟子に、井上俊三という土佐藩出身の人物がおり、他の土佐藩出身の人々は、井上に無料で写真をとってもらうことがよくあったようです。龍馬の写真も、スタジオは間違いなく上野彦馬のスタジオですが、撮影者はこの井上だという説があります。龍馬の写真については、まだまだ、いろいろな説が出ており、確かな見解というものはありません。
りょうまの名前ですが、どちらの方が正しいと断定する事は坂本龍馬記念館という立場上難しいかもしれませんが、当館では以下のような考えに基づき展示等を行っています。
「龍馬」と「竜馬」についてですが、龍馬自身は「竜」の字は一度も使ったことがありませんので、当館では「竜馬」という表記は絶対しないようにしていますが、当館以外では、「龍」という字が難しく、常用漢字でもないという理由から、龍馬自身は一度も使ったことが無いと知りながらも、使っている人や出版社もあるようです。特に小学生向けの出版物などでは、難しい字は使いたくないということで、「竜」の方を使っている場合が多いようです。「竜馬」が一般的になったのはやはり、司馬遼太郎氏が書いた「竜馬がゆく」の影響だと思いますが、なぜこの字を使ったのかはわかりません。
龍馬の所持品についてですが、靴も拳銃もいつどこで入手したか、明確には分かりません。靴につきましては、長崎で入手した可能性が一番高いのですが、残念ながら資料としては残っておりません。拳銃につきましては、薩長同盟締結後、寺田屋で襲われた時の様子を木戸孝允に知らせた書簡[1866年(慶応2年)2月6日]の中で、「かの高杉より送られ候ビストールを以って打ち払い」とありますので、高杉晋作から貰ったものだと分かります。しかし、その時の戦闘の最中に弾倉を落としてしまい、拳銃もその場に捨てたようです。高杉晋作には、薩長同盟締結前の1865年(慶応元年)に、下関へ行った時に会ったと考えられますので、その時にピストルを送られたのではないかと推測されています。その後、龍馬は寺田屋で受けた傷の保養を兼ねて、薩摩へ新婚旅行に行きますが、「短筒(ピストル)をもちて鳥をうちなど、まことにおもしろかりし。」[1866年(慶応2年)12月4日]と乙女姉さんに報告していますので、すぐに代わりの拳銃を入手した事になります。その入手先は残念ながら分かりません。拳銃の使い方をどこで習ったかもはっきりとは分かりません。分からない事ばかりで申し訳ありません。
龍馬は、江戸での剣術修行中に、佐久間象山について砲術を習い、土佐でも徳弘董斎について砲術を習っていますので、大砲や銃についての知識は持っていたようです。しかし、短銃まで習っていたかは分かりません。ちなみに、1867年(慶応3年)6月24日乙女・おやべ宛書簡には、妻のお龍がピストルを練習している様子が、「此頃ピストルたんぽうは大分よく発(うち)申し候」と報告されています。
龍馬の最後の言葉ですが、龍馬はほぼ即死でしたが、一緒に襲われた中岡慎太郎は龍馬よりも2日長く生きており、意識もはっきりしていましたので、襲われた時の様子を駆けつけた人に語っています。その話をまとめたものの中から、龍馬の最後の言葉を抜き出してみます。
まず、『谷干城遺稿』明治45年(1912年)ですが、「すっと起上って行燈を提げて階下段の傍まで行った。そして其処で倒れて、石川(中岡の変名)刀はないか、刀はないか、と二声三声言ふて、それでもう音が無い様になった。」とあります。
次に、『男爵安保清康自叙伝』大正8年(1919年)ですが、「其安否ヲ問ヘバ彼曰ク、我既ニ脳ヲ斬ラレタリ、助命ノ望ナシト一言シ、伏シテ復ビ声ナシト。」とあります。
最後に、「伯爵田中光顕口述」大正15年(1926年)ですが、「(前略)其時坂本は僕に向ってモウ頭を遣られたから駄目だと言ったが僕も是位遣られたからとても助かるまい(後略)」とあります。
以上、三人の資料を紹介しましたが、三人とも龍馬と慎太郎の遭難直後に駆けつけていますので、かなり信用できる話だと考えられています。
龍馬の身長についてですが、明治以後に龍馬の身長について語っている人は3人おります。
3人によると、
田中光顕(元・陸援隊士) =5尺7寸(173cm)
関龍二 (元・海援隊士)
=5尺8寸(176cm)
信太歌之助 (元・幕臣)
=5尺9寸(179cm)
となっています。
さらに、京都国立博物館には龍馬の紋服が所蔵されており、その大きさと、現代人の標準寸法とを比較してみますと、170cmより少し大きいくらいではないかと推測できます。龍馬の身長をはっきりと確定させる事はできませんが、いずれにしましても平均身長150cm台の時代に、170cmを越えていたのですから、かなり大柄な人物だといえます。
高知県の人は、龍馬のことを郷土の偉人と考えていますが、「手の届かない雲の上の人」という存在ではなく、「友達のような親しみやすい人」という存在ではないかと思います。高知県には、あちこちに「龍馬」と名前のつくものがあふれていますので、名前を知らない人はまずいないと思います。しかし、何をした人かと問われると、答えることができる人は多くないのではないかと思います。
業績としては、薩長同盟や船中八策、亀山社中(のちの海援隊)は欠かせません。また、人脈では姉の乙女や勝海舟、中岡慎太郎、後藤象二郎などは重要です。
二人の比較は非常に難しい事ですが、二人とも、亀山社中(海援隊)や奇兵隊という今までにない組織を造ったところや、人が考えつかないような事、または考えついても無理だと思えるような事を成し遂げたところが、型破りなイメージをつくりだしているのではないでしょうか。二人の相違点は色々ありますが、家柄の違いは大きいと思います。晋作は長州藩の中級藩士、龍馬は土佐藩の郷士出身ですので、藩に対する意識が全く違います。
龍馬の性格を明確に知る事はできませんが、「文は人をあらわす」と言いますので、龍馬の手紙から性格を想像する事はできます。龍馬の手紙は、ユーモアにあふれ、温かみがあり、以外に細かい事までよく覚えていたり、細かい指示を出したりしています。これらを総合して考えてみますと、龍馬の性格は明るく、優しく、細やかな心配りのできる性格ではないかと想像します。
「龍馬が現代に生きていれば・・・」とは、龍馬ファンなら誰もが考える事だと思いますが、その答えは非常に難しく、皆違う答えになるのではないかと思います。高知県のHPの中に、「龍馬ストーリー作成プロジェクト」というコーナーがあります。これは、“現代に龍馬が活躍する”ストーリーを皆さんから寄せられたアイデアで創り上げています。色々な方の“現代の龍馬像”を知る事ができて参考になると思います。
高知県のHPのアドレスは http://www.attaka.or.jp/ です。
龍馬がカツオのたたきを食べたという資料はありませんが、土佐人ならば食べた可能性は高いと思います。龍馬が飲んでいたお酒も資料が残っていませんので、はっきりとは分かりません。しかし、坂本家の本家である才谷屋は、酒造業もしておりましたので、本家で造ったお酒を飲んでいた、と考えるのが妥当だと思います。当時から現在まで続いて造られているお酒は、佐川町の「司牡丹」があります。このお酒の名称は、佐川町出身の田中光顕が命名したものですが、佐川町出身の勤王家は沢山おり、龍馬とも繋がりが深かったので、龍馬も現在の「司牡丹」にあたるお酒を飲んだ可能性は有ります。ちなみに、坂本家本家の酒造権利は、後年「司牡丹」が経営拡大のため買い取っています。なお詳しくは、郷土史家の広谷喜十郎氏によって『高知県酒造史』にまとめられています。
龍馬暗殺については、「京都見廻組の今井信郎(いまいのぶお)ら7名」の説が現在では最も有力視されています。
しかし、証言者である@今井信郎と、A渡辺篤、B中岡慎太郎の証言が食い違っているため、確実なことが分かりません。なお、今井は6回証言していますが、言っていることに一貫性がありません。また、中岡慎太郎の“最期の言葉”を後世に伝えた人が3人おりますが、この人達の言葉にも統一性がありません。そして、証拠物件や文書には、新選組説や薩摩藩が黒幕だと考えられるものもあり、
これらのことが謎を深める大きな要因になっています。現在のところ、実行犯や黒幕を断定できる決定的な資料はありません。
《龍馬暗殺の状況》
い つ : 1867年(慶応3年)11月15日午後9時ごろ(太陽暦では、1867年12月10日)
薩摩藩士・中村半次郎(桐野利秋)の日記『京在日記』によると当日の天気は雨。
しかし、犯行時の天気は、鍵屋長治郎の日記『幕末維新京都町人日記』によると、
「雨降夜双天」となっており、夜には雨も上がり、晴天だったようです。
場 所 : 京都四条河原町通り蛸薬師下ル西側「近江屋」(醤油屋)当主・井口新助。現在は「京阪交通社」
犯行人数: @今井説=7人
(襲撃者)渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助
(見張り)佐々木唯三郎、今井信郎、土肥仲蔵、桜井大三郎
(合計=佐々木唯三郎をリーダーとする京都見廻組の7名)
・今井は後の証言で、今井自身が襲撃者の中に加わっていたと証言しています。
A渡辺説=6人
佐々木唯三郎並びに拙者(渡辺篤)始5名
(合計=佐々木唯三郎をリーダーとする京都見廻組の6名)
B中岡の最期の言葉
『谷干城遺稿』明治45年(1912年)=人数不明
『男爵安保清康自叙伝』大正8年(1919年)=3名
「伯爵田中光顕口述」大正15年(1926年)=2名
この他にも次のような説があります。
実行犯 : @元・新選組(高台寺党)の伊東甲子太郎説
A新選組の原田左之助説
B薩摩の中村半次郎説(桐野利秋=人斬り半次郎)
黒 幕 : @幕府(大政奉還と寺田屋の恨み),実行犯=見廻組
A薩摩藩(武力改革路線と平和改革路線の意見の相違)実行犯=不明
B紀州藩士・三浦休太郎(いろは丸事件の恨み)実行犯=見廻組
色々な犯人や理由が考えられますが、よほど明確な証拠でも発見されない限り、誰も真犯人は特定できないと思います。
【参 考】京都の霊山歴史館(りょうぜんれきしかん)には、「龍馬を斬った刀」が所蔵されています。
これは、見廻組・桂隼之助のご子孫から寄贈されたもので、龍馬を斬った刀だと伝えられています。
銘=「越前国住人兼則」 , 長さ=約65cm(脇差程度)
中江兆民は龍馬の事を「其額は梅毒の為め抜上がり居たり」と語っているようですが、梅毒で髪が抜けるということはないようです。兆民以外で、龍馬の事を梅毒と語っている人はいない上に、兆民自身が龍馬と特に親しかったわけでもないですので、兆民の勘違いという事は十分考えられます。
「英将秘訣」は、大正3年6月に発行された千頭清臣著『坂本龍馬』ではじめて紹介さ れたものですが、確信はないものの、当時は龍馬が語ったものだと信じられていたよ うです。その後、研究が進み、おそらく平田派国学者志士グループの中に生まれた ものであろう、と推定されています。(平尾道雄著『新版 龍馬のすべて』 1985年 高知新聞社発行) 「英将秘訣」は、1863年(文久3年)におきた足利将軍3代の木像梟首事件の際に、会津藩士広沢安任によって押収されたものです。その広沢の手記によると、「英将秘訣」の作者は龍馬ではなく、平田派の学者と考える方が無難で あり、現在では龍馬とは無関係とする説のほうが大勢を占めているようです。 現代では龍馬は英雄視されており、「英将秘訣」の中から格好良い言葉(「世に生利 を得るは事を成すに在り」、「衆人皆善を為さば、我独り悪を為せ」など)だけをとって、さも龍馬が言った言葉のように書いている書物もありますが、「英将秘訣」には非常に危険な思想を含んだ言葉(「人を殺す事を工夫すべし。刀にてはヶ様のさま、毒類にては云々と云事をさとるべし。乞食などを2、3人ためし置くべし。」など)もあり、龍馬の言葉とは思えないものも多くあります。
中江兆民と坂本龍馬が一緒に写った写真ですが、当館にはありませんし、一緒に撮ったという記録も見たことはないので、おそらく現存しないのではないかと思います。
坂本春猪 (以下「坂本龍馬大事典」を参考にしています。)
天保14年(1843年)12月14日〜?
土佐藩士坂本権平の娘。母は川原塚氏。
龍馬とは叔父と姪の間柄だったが、年が8歳しか違わない為、龍馬に妹のように可愛がられた。
龍馬がよく春猪の顔を、アバタのある顔から、金平糖の鋳型と言ったり、長崎から「外国のおしろいと申もの」を送ったことや、龍馬にかんざしをねだったことが、龍馬が乙女や春猪に宛てた手紙からもわかる。龍馬が春猪に宛てた手紙2通が確認されている。
文久3年秋、家老山内下総の家来の鎌田実清の次男清次郎を婿養子に迎えた。
元治元年に長女鶴井、慶応元年に次女兎美(富)を生む。
清次郎は慶応3年脱藩して龍馬を頼り、後年帰国して坂本家を出、名を三好賜と改めた。
春猪も三好家に入り美登と改め、長男譲と三好家長女として亀代をもうけた。
譲は早逝、亀代は後に税務官吏楠瀬済の後妻に入った。
夫の没後、札幌で牧師をしていた坂本直寛を頼るも、直寛の後妻と合わず高知に帰る。
没年、享年、墓所などは現在もわかっていません。
中岡慎太郎の像は南向きに立っています。よく桂浜の龍馬の銅像の方に向いて立っているといわれますが、二つの銅像は向き合っていません。もしそうするには、かなり北西を向かなくてはなりませんが、そうすると銅像の顔が陰になる時間が長くなるので、もっとふさわしい開けている方角になっているわけです。
海援隊は土佐藩に属する商社で、物を運んだり商売をしたりしていますが、いざという時は土佐藩を船で応援する役目をもっています。浪人ものでも外国へ行ってみたい人は入ってきてよい、と規則には書いてあります。
陸援隊は土佐藩に属する武力集団で幕府を倒すための戦いに参加する目的でつくられました。中岡慎太郎が隊長ですが、実践は行われませんでした。
「川島家」は龍馬の二人目の母(継母)の伊与の里にあたるところで、坂本家とは前々からつきあいのあった家で、伊与が後添えとして坂本八平の後妻となったのもその縁からです。川島家の当時の当主伊三郎は、「ヨーロッパ」という呼び名もあったくらいの外国通で、世界地図など海外の資料を豊富に持ち、龍馬もそれを見るのを楽しみによく通ったといわれています。高知城下からその辺りまで手漕ぎの船で30〜40分くらいでしょうか。湾の眺めもよい航路です。
田中家は坂本家の山や領地の管理をしていた人で、当主は当時良助といい、龍馬より16才年上でした。多趣味な人で鉄砲も扱い龍馬のよき兄貴分だったでしょう。萩の久坂玄瑞に会いに行く文久2年10月14日、ここで旅費として2両借りたことが今も残っている証文で明らかです。
春猪=おやべ、が正解です。
〇おやべは乳母にするには、子供ができるくらいの年だから、乳母はそんなに若くないので違います。
〇使用人だとすると西の部屋の縁側で日なたぼっこをして、猫を抱いて大口開けてゲラゲラ笑っているという龍馬の手紙の表現と合いません。そんなにのんきな甘やかされた使用人はいないはずですから、おやべは使用人でも乳母でもないです。
〇アバタがあって、おしろいをぬれと龍馬によく言われます。これは「春猪」の所でも出でくるので同一人です。
〇「おやべにははや子ができた。」と龍馬が元治元年(1864)6月28日の手紙に書いている。今まで、この手紙は文久3年(1863)といわれてましたが、おやべに子ができるといっても、結婚する前しかも1年も前に子供が出来るはずはないので、養子の清次郎が文久3年(1863)暮れまでに養子に入り、春猪と結婚し、そこに子供ができます。それが、元治元年(1864)のこと(これは家系図にもある)とすれば、おやべ=春猪でなければ、おかしいです。おやべ=春猪のあだ名となります。
沢村惣之丞についてのご質問ですが、調べてわかった範囲でおこたえさせていただきます。
1、生年月日・・・1843年(天保14年)生まれ。家族構成・・・わかりませんでした。
2、潮江村・・・・・現在でも、潮江(うしおえ)地区として残っています。はりまや橋から南の方角になります。
沢村惣之丞(さわむらそうのじょう)・・・1843年(天保14年)〜1867年(慶応4年1月15日)。土佐国土佐郡潮江村の出身。土佐藩士。名は延世、惣之丞は通称。
文久元年(1861)8月に結成された土佐勤王党に加盟する。
文久2年(1862)3月上旬、吉村虎太郎に同調して脱藩するが、同志の説得の為に引き返し、24日龍馬を従えて再び脱藩する。
文久3年(1863)軍艦奉行並・勝海舟門下となった龍馬が上京すると、誘われて海舟の門人となり神戸海軍操練所に入って英語・数学を修めた。以後、海援隊に至るまで龍馬と行動を共にしてよく補佐し、長崎時代に関雄之助と改称した。
慶応4年(1868)1月海援隊を率いて長崎奉行所を占拠するが、誤って薩摩藩士を殺害。その責任を負って自刃して果てた。享年26歳。お墓は、長崎市筑後町本蓮寺。
吉井幸輔は、龍馬より7歳年上の薩摩藩士です。高知県にも来て住んだことのある歌人、吉井勇(1886〜1960)のおじいさんで、龍馬のことをいつも気にかけてくれる人です。1866(慶応2)年1月23日、薩長同盟を結んだあと、寺田屋で伏見奉行所の捕り手に取り囲まれ、指を斬られた龍馬を、薩摩藩邸に避難させて介抱していますし、お龍さんを連れた旅行でも、吉井は案内役をつとめました。霧島温泉で待っていたのは、山に登るのが大変だったのと、山の道は一本道で迷うこともなく、仲の良い龍馬とお龍を2人だけにしてあげようと思ったからでしょう。山から下りてきた龍馬達を、また案内するためでもあります。
岡上樹庵は150cm以下の小柄な人で、かんしゃくもちだったなどと言われています。天保10年(1839)岡上家に養子に入っています。最初の奥さんは亡くなり、安政3〜4年頃(1856〜57)その後妻として乙女さんが入ったようです。果たして夫婦仲が良かったかというと、1863(文久3年)6月29日乙女に宛てた龍馬の手紙の中に、「先日下さった手紙に、坊主になって山の奥へでも入りたいと言っていますが・・・」と書いてあり、この頃からあまり良くいってなかったようです。龍馬の手紙にも樹庵の事は全く出てきませんが、更に1867(慶応3)年6月24日の乙女宛の手紙で龍馬は「元気になったら京都へ出て来たいといっているが、龍馬の姉が不自由になったから出て来たと言われると、天下の人に対してはずかしい・・・」と言って一生懸命に止めています。これも樹庵と仲が良ければその必要もないはずです。元治2年乙女は岡上家から坂本家へ帰ったという説もあります。
さて、肝心の樹庵ですが、岡上家が氏々藩公の御付の医者(待医)をつとめているので、樹庵もそれを受け継いでいると思います。その他の医者と交流があったかどうかについてはわかりません。
岡上樹庵 安政11(1828)年〜明治4(1871)年
龍馬との出会いのいきさつは色々書かれていますが、西陣織の店に生まれた龍は生家が事業に失敗し、没落(1853年)したため奉公にいっていた医者の楢崎将作の養子になり充分な暮らしをしていましたが、将作が死んでここも没落し、母親や妹、弟を養うため龍馬たち勤王派の人達の炊事を手伝ったり、京都の料理屋で働いたりしていました。龍馬は楢崎家でも料理屋でもお龍に会ったことがあり、苦しい生活を助けるため元治元年(1846年8月)龍馬の世話で、お龍は寺田屋の養女となりました。
この頃から、龍馬とお龍の仲はますます良くなり、お龍も龍馬のために京都の情報を集めたりして協力します。慶応元年(1865)9月9日の龍馬の手紙では、土佐にいる乙女姉さんにお龍にプレゼントする帯・着物などを送って欲しいとねだり、家族を助けているお龍の頑張りを伝えています。
この頃龍馬は、長崎の亀山社中に移って薩長同盟をつくることに精出し、慶応2年1月ついにこれが完成します。そのあと寺田屋で休んでいた龍馬は幕府の伏見奉行所の捕り手に囲まれますが、お龍がこの動きを知って風呂から飛び出し龍馬に知らせたので逃げる事ができました。龍馬はこの年の12月手紙の中で「お龍がいたから龍馬の命は助かった」と書いています。
龍馬はけがが治ったあと慶応2年2月お龍と結婚しました。3月薩摩の西郷さんたちの招きで龍馬はお龍を連れ日本初の新婚旅行にでました。霧島山のふもとの温泉できずの保養をし山にものぼり、約3ヶ月間ゆっくりとすごしました。
(参考になる本) 「龍馬の妻 おりょう」(新人物往来社・前田愛子 著)
岡田以蔵(いぞう)は龍馬より3才年下で、天保9年、現在の高知市北部江の口村に生まれました。土佐藩士で、武市瑞山(ずいざん)に剣術を習い、その後江戸に出て、武市も学んだ桃井道場に入門しました。この時、江戸にいた居た龍馬と同じところに宿をとっていたそうです。以蔵は、文久元年(1861)にできた党首武市の「土佐勤王党」に入り、武市の忠実な部下となりました。文久2(1862)年、江戸に出ると、勤王運動に反対する者に対し人斬りをはじめ、「人斬り以蔵」と人々に恐れられました。文久3年には、神戸の海軍塾に居た龍馬と交流があり、龍馬が最も尊敬し師でもある勝海舟の暗殺を、以蔵が未然に防いだこともありました。その後、幕府の力が強くなると共に以蔵も狙われ、8月の政変で、翌元治元年(1864)土佐藩によって捕らえられ、厳しい拷問を受けた後、慶応元年(1865)閏(うるう)5月、武市瑞山と同じ頃処刑されました。以蔵28才の時。今でも、高知市にある以蔵の墓を探す人、訪れ手を合わす人も多いようです。
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以蔵のお墓は高知駅の次の無人駅「薊野(あぞうの)」の近くで、あざみの保育園(高知市薊野1228−1・TEL088−845−1253)の西側の山中にあります。保育園の園長さんが目印をつけてくれています。
また企画展として、平成14年度「人斬りと呼ばれた男」を計画し、岡田以蔵・中村半次郎・田中新兵衛をまとめる予定です。
龍馬の死後、約3ヶ月(12月〜3月)を、長州の三吉慎蔵の家で過ごし、慶応4年(明治元年)3月、土佐の坂本家に来ます。一般的に死んだ亭主の家族と暮らすのは気詰まりなものですが、お龍の気性とか、坂本家のお龍に対する見方が厳しかったとか、色々ある中で嫌気がさし、芸西村(高知から50キロ)にいた妹(君枝)のところに立寄り、手紙などを整理し、一年足らずの明治2年夏京都へ帰りました。その後は東京に出て再婚し、明治39年66歳で横須賀でなくなります。またお龍の髪の長さですがこれはわかりません。
1.河田小龍について
仕事は土佐藩の船の担当である船役人でした。絵の方も本業ではありましたが、藩お抱えの絵師ではありません。
2.ジョン万次郎について
この頃1851〜52年頃はやや緩やかになっていたと思います。最初琉球(沖縄)に上陸したのも、その辺の事も考えていたと思います。そこでの取り調べで、船の知識、アメリカの事など、当時未知の世界だった事を詳しく知っている万次郎は、貴重な存在になるはずですから、そのことが薩摩に伝えられた上で調べを受け、さらに規律の緩やかな長崎へ行き、1852年に土佐に戻るので、もうそのころはめずらしい話を聞き、参考にするところまで行っていたでしょう。小龍が取り調べの役に選ばれたのは、蘭学をやっていた事と、新しい事に関心を持っていた事などで、まさに人を得たというべきでしょう。絵も描けるしメモにも強い人でしたから、漂流記をまとめる事が出来たのです。
「寝侍ノ藤兵衛」はもちろん架空の人物です。資料といって特にありません。なぜそのような人物が登場したかを私流に考えますと、龍馬が自分の考えをまとめた時、それを小説の方で表すには、「龍馬はこう考えたのだった・・・」と書くこともありますが、それよりも、聞き手を登場させ、その聞き手の質問にも答えながら、龍馬が語りかける方が分かり易いし面白くなるからです。つまり「寝侍ノ藤兵衛」は「聞き役」「質問者」「舞台廻し」などの小説の運び役なのです。対談や講演がすばらしい司馬さんらしいアイデア(?)ですね。
明治4年8月20日に、朝廷が坂本龍馬の功績をたたえ、後継がないのを哀れんで、甥の高松太郎に跡目相続を命じました。
高松太郎が選ばれた理由としては、母が龍馬の長姉の千鶴だったこと、龍馬と一緒に海援隊で活動していたことなどが、考えられます。
「大里屋」と「大黒屋」は、大里屋が正しいです。「長男」と「次男」は、大里屋 伝次の長男です。名前は、近藤長次郎(ちょうじろう)が基本の名前です。近藤昶次郎(えいじろう)、近藤昶(えい)、上杉宗二労郎(そうじろう)は、亀山社中でよくこの名前を使っていました。当時は、変名をすることが多く、特に勤王運動など反幕府運動をする時は、名前を変えてあちこちへ移動していました。
龍馬も直柔(なおなり)という本名ほか、才谷梅太郎(さいだにうめたろう)、西郷伊三郎(さいごういさぶろう)がありますよね。
龍馬は19才の時に江戸へ剣術修行に出ます。北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)千葉定吉(さだきち)の千葉道場に入門。龍馬はその千葉家の長女「佐那(さな)」(天保9年〜明治29年10月15日)に恋心をもち、乙女姉さんへの手紙にも佐那のことを書いています。
『この人は佐那といいます。今年26才で、馬にもよく乗り、剣も強く、長刀(なぎなた)もでき、力は普通の男より強い。うちに前居たぎん(奉公人と思われる)くらいですよ。顔形も私の初恋の平井加尾よりもっと美人です。お琴も弾き、絵も上手、それに、静かな人です。』と紹介しています。(文化3年8月14日)文久3年頃までは千葉道場にも出入りし、佐那とも会っていたと思いますが、その後、勝海舟と共に神戸の海軍塾づくりに精を出し、神戸、長崎と移り、慶応元年には亀山社中を開くなど、龍馬の活躍の舞台が江戸から遠く離れてしまったことで、佐那の龍馬への想いが届かなかったのでしょうか、縁が切れてしまいました。それでも佐那は独身を通し、『私は龍馬と婚約していた・・・』と、話していたそうです。「私は心を定めて良い縁談を断り、ただひたすら坂本さんを待ちました」と、一生龍馬を慕って淋しく他界した佐那の墓石(自然石)の裏には、「坂本龍馬室(夫人の意味)」と刻んであります。甲府市朝日5丁目(JR甲府駅から徒歩15分)の、「日蓮宗清運寺」にある墓は、もともと上野の谷中にあったものを、交際のあった自由民権運動家、小田切謙明の夫人の豊次(とよじ)が、無縁仏にならないようにと、自分の住む甲府に分骨して埋葬したものです。
*小説で、阿井景子著者 『龍馬のもう一人の妻』(文春文庫)があります。ご覧になってみてください。
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千葉佐那さんは、龍馬が剣術を習った千葉定吉の長女として、1838年(天保9年)に生まれ、1896年(明治29年)に没しました。龍馬より3歳年下になります。兄弟は他に、兄が一人、妹が二人おりました。龍馬がもらった「北辰一刀流長刀目録」に兄や妹とともに名を連ねており、そこには、千葉佐那女と署名されています。
龍馬の死後、明治になってから『女学雑誌』で龍馬の事を語っており、婚約していたことも語られています。1858年か1859年(佐那が21・22歳)に千葉家から結納として短刀一振り、龍馬からは以前、松平春嶽から頂いて着古びてしまった紋付が贈られたと語っています。しかし、この年代では少し早すぎるので、実際にはもう少し後のことではないかと考えられています。
龍馬の手紙では、1863年(文久3年)に佐那さんを乙女姉さんに紹介した手紙が残っています。その手紙によると、もともとの名前は、乙女姉さんと同じで、“乙女”という名前だったそうです。
「今年26才になり、馬にもよく乗り、剣も強く、長刀(なぎなた)もでき、力はなみなみの男子より強く、例えて言えば、昔家にいた“ぎん”という女と同じくらい力がある。顔かたちは平井(加尾)より少し良い。さらに、13弦の琴を上手に弾き、14才の時には皆伝していた。そして、絵も描く。心もすばらしく、男子など及ばない。その上、静かで、余計なことを言わない人。まあまあ、今の平井、平井。」と書いています。平井加尾は龍馬の友人である平井収二郎の妹で、美人だったと言われており、龍馬も好意を抱いていたようですが、それよりも美人だと紹介しています。“今の平井、平井”とは、「平井に代わって、今一番好きな人」というような意味です。
以上のように、すばらしい女性だったようです。それにしてもよほど好きだったのか、誉めすぎくらい誉めていますね。開放的な龍馬らしい手紙で、乙女姉さんとの仲の良さもうかがえる面白い手紙です。
万次郎関係の資料ですが、現在展示中のものは、「ジョン・ハウランド号」の模型と、万次郎が河田小龍に送った「ABCの掛け軸」(複製)になります。展示していないものでは、「漂流記」・「北亜墨利加漂流記」があります。以前『ジョン万・小龍・そして龍馬』という3人を取り上げた企画展を行いました。
「藤吉之墓」ですが、藤吉(とうきち)とは、龍馬が暗殺された近江屋で龍馬たちの用心棒とお手伝いをしていた雇い人(下僕)で、もと相撲をとっていた人だそうです。刺客が来た時、出された名刺をもって龍馬たちの部屋(2階)へ上がろうとして背中から斬られ死んでしまいました。龍馬の仲間たちが気の毒に思い一緒のお墓に葬ったそうです。
とてもご兄弟が多く、現在北海道に3家族、東京にも3家族くらい居られ、高知市にも1家族、神戸にも1家族居られます。神戸の土居晴夫さんは、坂本家一族の本などを書いておられそれぞれ一家ご繁栄です。
お龍は龍馬が暗殺された時、下関の伊藤助太夫邸に預けられていましたので、お葬式には出席しておりません。
龍馬が殺害された報が下関に届いた後、お龍は三吉慎蔵や伊藤助太夫たちと法事を行いますが、その時に泣いては恥ずかしいと堪えていましたが、堪えきれなくなって髪を切り取って、龍馬の霊前に供えるやいなや、ワッと泣き出したそうです。(土陽新聞に掲載された「千里駒後日譚」でお龍本人が語っています。)
まず、お龍の再婚時期についてですが、確かに明治18年となっている本が多いのですが、実際には明治8年に入籍したようです。原本を確認したわけではないのですが、戸籍が資料として紹介されているようですので、かなり信頼できると思います。しかし、入籍が明治8年というだけですので、それ以前から結婚していた可能性はあります。龍馬が死んだ直後のお龍は、長州の三吉慎蔵宅や、高知の龍馬の実家、妹・君枝の嫁ぎ先である菅野覚平衛宅などを転々としていましたので、龍馬の死の直後に再婚したということはありません。次に、松兵衛についてですが、申し訳ありませんが、当館ではほとんどわかりません。松平衛のご子孫の方がいらっしゃるか分かりませんが、そういう方々に直接お聞きする以外方法はないのではないかと思います。また、横須賀市に信楽寺(しんぎょうじ)というお寺があり、そこの過去帳に少し記載があるようですので、ご住職にお尋ねになられたらよいと思います。信楽寺につきましては、当館のホームページからリンクを貼ってある「よこすか龍馬会」のホームページで紹介されています。
申し訳ありませんが、お龍がどういうふうに髪を切ったかまでは分かりません。「土佐にあだたぬやつ」と言った理由は、武市瑞山が作った漢詩に表れていると思います。
肝胆元雄大 奇機自湧出 (肝胆元より雄大 奇機自ら湧出)
飛潜有誰識 偏不恥龍名 (飛潜誰か識る有らん 偏に龍名に恥じず)
龍馬のように肝っ玉や、考え方のスケールが大きな人にとって、土佐という国は狭すぎると考えていたようです。
坂本龍馬手帖摘要(『坂本龍馬の手紙』宮地佐一郎著、P.532掲載。龍馬のメモのようなもの)によれば、以下のようになります。
※現代文に直しています
慶応2年
2月29日 夜、伏見邸(伏見の薩摩藩邸)ニ下り乗船。
3月朔日(1日) 大坂。
4日 三邦丸に乗船。
5日 朝、出帆。
6日 夕、下関に泊まる。
8日 長崎に至る。
10日 鹿児府(鹿児島)に至る。
16日 大隅霧島山の方、温泉に行き、鹿児島の
東北7里(28km)ばかりのところ、浜の市
に至る。但し舟で行く。日当山(ひなたやま)
に至る。
17日 塩浸(しおひたし)温泉に至る。
28日 霧島山へ出発。霧島温泉所で泊まる。
29日 霧島山山上に登る。
そのあと霧島神宮で泊まる。
30日 霧島温泉所に帰る。
4月
塩浸(しおひたし)温泉に帰る。
4月 8日 日当山に帰る。
11日 浜の市に帰る。
12日 浜の市から舟にのり鹿児島へ帰る。
14日 改正所(藩の事務所か?)に至る。
5月
1日 桜島丸(さくらじままる)鹿児島に来る。
6月 1日 桜島丸に乗る。
このあとは長崎でお龍を下ろし下関へ。
(高杉を応援するため)
17日 関門海峡へ着き、海戦を行う。
龍馬が脱藩したルートについては、韮ケ峠(にらがとうげ)越えと、九十九曲峠(くじゅうくまがりとうげ)越えの二説が主なものとしてあり、それぞれ主張がありますが、昨年度(平成13年)高知市が音頭をとって、それらに関連する自治体(14市町村)が共同して、色々の催しや、整備に取り組もうという事になりました。すでに昨年(平成13年)11月15日、自治体が集まって会議とサミットを開き、趣旨を確認しました。会の名称は「龍馬脱藩・ゆかりの道関連市町村協議会」です。今年(平成14年)3月24日の脱藩の日には、高知県葉山村で行われた「脱藩ウォーク」にも参加しました。
なお今後の行事計画は、高知市観光課でいま策定中で、今年(平成14年)11月15日に発表することになるようです。
坂本龍馬記念館としては、今年(平成14年)3月、マイクロバスで脱藩の道を見るツアーを行い、約20名が参加しました(館だより「飛騰」で案内)。来年3月については、いまのところ未定です。
脱藩の道は、四国内は伊予長浜まで約170キロメートルといわれています。今でも、歩いて超える道はかなり残っていますので、そこを整備してその町や村が、「脱藩の道を歩こう」といって、催しをやっています。(大体20キロ〜10キロくらいにして、あとは車です)新人物往来社から出ている「共同研究・坂本龍馬」という本に、坂本美津子さんという人が地図を入れ、交通機関や役場のことなどを書いてまとめています。催しなどは、関連の役場(すみませんが電話は104で聞いて下さい。)愛媛県河辺村、高知県・梼原(ゆすはら)町などが詳しいです。最近は、愛媛県長浜町も脱藩の港で町おこしを頑張っています。
新人物往来社「共同研究・坂本龍馬」(1997年9月発行)の中にその道筋のわかる説明が載っています。地図は勿論あり、宿泊施設、バスの便、道中での問合せ先など書いてあり、おすすめです。ルートについての意見は色々ありますが、新旧それぞれについて、新人物往来社から新ルート「坂本龍馬脱藩の道を探る」(村上恒夫著)旧ルート「写真集 龍馬脱藩物語」(前田秀徳著)がありますので、ご参考になさって下さい。尚、脱藩の道は殆どが土の道で、それぞれの市町村が標識をたてています。
龍馬の高知から京都までの脱藩コースですが、龍馬は土佐の檮原町(ゆすはらちょう)を抜けて、伊予の長浜へ出ます。そこから船に乗り、長州の三田尻に渡り、下関にたどり着きます。一緒に脱藩した沢村惣之丞(そうのじょう)とは下関で別かれ、龍馬は九州、沢村は京都を目指します。残念ながら、九州での龍馬の足取りは分かりませんが、その後、龍馬は大坂へ向かい、そして京都を通り、江戸へ行き、そこで勝海舟に弟子入りしました。
文久2年4月1日、龍馬が白石正一郎邸に到着したという資料は、『坂本龍馬関係文書』二巻(日本史籍会叢書)に出ております。しかし、『白石正一郎日記』には記載されておりません。『坂本龍馬関係文書』と『白石正一郎日記』の資料価値を比較してみますと、『坂本龍馬関係文書』に記載されているものは、坂崎紫瀾(1853〜1913)が龍馬の行動を編年体にまとめた「坂本龍馬海援隊始末」がもとになっております。坂崎は『維新土佐勤王史』をまとめた人物でもありますが、資料が無くてわからない所は、想像で補うという事をよく行います。(坂崎に限らず、当時では比較的よくある事のようです。)そういう坂崎の癖から考えても、あまり全面的には信用できない資料だと思います。それに引き換え、『白石正一郎日記』は志士との交友が詳細に記載されており、非常に資料価値の高いものです。それに記載が無いとなると、文久2年4月1日の件は疑問を抱かざるをえません。しかし、坂崎の書いた「坂本龍馬海援隊始末」以外、龍馬の行動がわかるものが無いため、多くの書籍にはそれが引用されているのだと思います。
龍馬のお墓は、京都市東山区清閑寺霊山町、京都霊山護国神社にあります。
坂本龍馬の銅像は、高知市桂浜龍頭岬上に、太平洋に向かって建っています。昭和3年5月27日完成除幕。製作者は本山白雲。高知市宿毛市出身。建設者は、「高知県青年」となっており募金活動の主役は、入交好保さんら4人の大学生でした。銅像の高さ5メートル30センチ、台座を含めた総高は13メートル40センチ。総工費約2万5000円(現在にして7千500万〜8千万円)です。
6面からなる屏風で、枠(屏風の黒いふちから)を含めたサイズは【横394cm・縦174cm】、メッセージ本文は【横380cm・縦155.5cm】です。
太平洋が200度の視界に入る伸びやかな場所には、将来と海へ向かって雄飛する形、斬新なモニュメント的な形がふさわしいとおもいます。また限りなく空と海を目指す高床式になっています。龍馬は、船中八策を読んでみるとおわかりのように、それを書いた19世紀(1867年)に、今の小泉内閣が取り組んでいる、議会・人材の登用・平等条約・為替レート・国防などについてずばり書いていますので、感覚的には21世紀に通用するものを持っています。それを象徴すると斬新なデザインがふさわしいと云えます。 (500人の中から選ばれた公募デザインです。)
当館は龍馬直筆の手紙を、寄託・長期借用資料も含めて次の4点を所蔵しています。
姉・乙女宛て、1864(元治元)年6月28日、通称『ねぶとの手紙』、
姉・乙女宛て、1867(慶応3)年4月7日、通称『海援隊隊長就任直後の手紙』、
望月清平宛て、1867(慶応3)年10月18日、通称『暗殺一ヶ月前の手紙』、
陸奥宗光宛て、1867(慶応3)年11月13日、通称『暗殺二日前の手紙』 です。
その他、複製や写真などで手紙は16点所蔵しており、これらを多少の入れ替えを行いながら展示しています。
地下2階では現在六63点の資料や写真、パネル類などを展示していますが、中心は龍馬の手紙であり、直筆・複製取り混ぜて、常時18点前後を展示しています。龍馬の手紙は、古文書を読めない一般の方々にも”ご覧いただく”だけでなく、”お読みいただく”ための展示を心掛けているため、手紙の下に、読み下し文、現代語訳、時代背景や内容の解説というように、4段構成で展示を行っています。
直筆の手紙は内容が重要なものばかりなので、常時展示を行いたいところではありますが、保存を考えるとそれは不可能なので、すべて複製を作り、通常は複製を展示するようにしています。
龍馬直筆の書簡は、毎年11月15日前後の1ヶ月と、気候が良く、来館者の多いゴールデンウィーク前後の1ヶ月に限って展示していきたいと考えておりますので、ご理解いただければ幸いです。
龍馬の手紙は現在136点確認されていますが、その中には、今では所在が確認できない物が多数あります。所在が確認できる物も分散して所蔵されており、最もまとまって所蔵している所でも8〜9点が最高です。しかもそれらは、京都国立博物館や宮内庁書陵部のように常設展示をしない所であったり、個人の方の所蔵であります。
京都国立博物館の手紙は、5mの手紙以外はすべて複製させていただいており、当館で見ることが可能ですが、各地に分散している龍馬の手紙は、特別展でもない限り、まとめて一ヶ所で見ることは不可能です。常設展示している所でも多くて5点以下です。それを考えると、複製とは言え、常時18点前後の手紙を見られる当館は、一応意義を果たしているのではないかと自負しております。
龍馬は非常に人気の高い人物で、所蔵者が資料を手放すことは考えにくいため、今後も複製による資料充実を中心に考えています。それと同時に、未発見の資料や再発見の資料の調査も進めております。
龍馬の直筆の手紙は4点ですが、この他当館には、万国公法や海援隊の英語辞書的な和英通韻伊呂波便覧、いろは丸事件始末、才谷屋の年譜書などの龍馬関係資料を所蔵しています。
なお、紋付や血痕のある屏風、掛軸、三徳、吉行の刀などの本物は京都国立博物館に所蔵されています。ピストルの本物は現存しておりません。
古い雑誌になりますが、当館が掲載されている建築雑誌は、
・建築文化 No.543 92年1月号 ・新建築 67号 92年1月号 ・Ja 6月号 92年2月号 になります。
設計は公開競技で行われ、応募総数475点の中から、最優秀賞に高橋晶子氏(当時30歳・横浜市在住)の作品が選ばれました。
平成4年3月、都市美デザイン賞特賞受賞(高知市文化振興事業団より)。平成5年8月、アーキテクチュアオブ・ザ・イヤー選定(丹下健三氏による)。
1
1991(平成3)年11月15日開館です。今年で10年目です。建設のきっかけは、1985(昭和60)年に龍馬生誕150周年を記念して、龍馬の資料を展示できる館を作ろうという動きになりました。全国に募金を呼びかけて8億円集め、高知県が2億円出して建てられました。
2
2001年9月5日現在で、298点あります。これらは、寄贈(いただいたもの)、寄託(あずかっているもの)、購入(お金を支払ったもの)によって集められました。
3
2001年9月5日現在で、入場者数は1,327,185人です。開館以来3,583日目になります。
4
龍馬像が桂浜にあるからです。この記念館も龍馬像もともに募金で建てられましたが、この館は最初から龍馬像の近くに建てたいという考えだったようです。それではなぜ、龍馬像が桂浜にあるのかといいますと、龍馬は勝海舟の海軍塾に入って以後、ずっと海と船と関係しています。亀山社中や海援隊などです。また、龍馬の手紙の中には何度も“世界の話”が出てきます。龍馬は仲間たちと船で世界に出ていくことを早くから夢見ていました。そんな龍馬だからこそ、銅像は世界に通じる海を眺めることが出来る場所に建てたかったようです。龍馬が桂浜に遊びに来たという資料は残念ながらありません。しかし、浦戸湾をはさんで対岸の種崎には継母(2番目のお母さん)の実家があり、よく遊びに行っていたようですので、対岸の桂浜にも来た可能性はあります。
龍馬の資料(本物)は、当館に保存しているものもございますが、多くは京都の国立博物館にあります。残念ながら、国立博物館では常時展示はしておりません。国立博物館については当館リンク集からHPを見る事も出来ますし、企画展などの機会に問い合わせてみて下さい。
また当館では複製にはなりますが、龍馬関係の資料を多くご覧いただけるのではないかと思います。
残念ですが、龍馬の所持していた刀は所蔵していません。龍馬は刀について関心があり、コレクションしていたようで権平兄さんによく刀をわけてほしいとねだっていました。
記念館には、龍馬が兄権平にわけてもらいたいと頼み、最期をともにした「吉行」と同じ銘の刀が一振りあります。龍馬の刀と同じ刀工がつくった刀でほぼ同じ時代のものです。
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「吉行」は、龍馬が兄権平(ごんぺい)に慶応2年12月4日の手紙で送って欲しいと頼み、権平(ごんぺい)がたまたま土佐を訪れた西郷に頼んで龍馬に渡してもらった刀です。この刀は暗殺された時床の間に置いてあり、それを急いで取り、鞘をはらうひまもなくそのまま敵の刀の切っ先が額を切り込み致命傷となりました。
不充分なところはあるかと思いますが、努力させていただきます。高知県人の龍馬への思いにつきましては、龍馬研究会の方々や、龍馬倶楽部の方々などにもご協力を仰ぎ、答えていきたいと思います。
小学生が龍馬をはじめ、幕末維新史をどのようにとらえているかは、大いに知りたいところですので、ぜひお聞かせください。
当館の休館日は12月26日から翌1月1日になっております。初日の出を見る場所として、’桂浜’や、桂浜に行く直前の’花海道’と呼ばれる海沿いの直線道路がとても人気があり渋滞します。水平線から昇る日は雄大ですばらしいものですが、元日のAM2〜3時頃から”並ぶ”ぐらいのお気持ちで、おいでいただいたらよいかと思います。(お車で通常、中心地の「はりまや橋」から「桂浜」まで40分です。)また、お帰りの時も渋滞します。おいでになる時はお気をつけてお越しください。
屋上からの景色についてですが、特に絵葉書やポスターなどは無いので、こちらでカメラで撮影した画像を少しご紹介します。

龍馬とイギリスの関係を示す資料ですが、ご質問が漠然としていますので難しいですが、内容によっては結構あると思います。
グラバーについては調べたことがないので詳しくは分かりませんが、以前たまたま目にしたことがあるのは、『防長史談会雑誌』27号です。長州藩の木戸孝允が船の修理代を龍馬に借りようとしたことがありますが、龍馬も金が無く、龍馬がグラバーに相談したということだったと思います。このお金は、最終的には土佐藩の長崎出張所である土佐商会が貸しました。このことは、岩崎弥太郎の日記である『瓊浦日歴』にも出てくるのではないかと思いますが、龍馬と直接の繋がりは書かれていないかもしれません。しかし、間接的には繋がっているはずです。岩崎の日記なら、“土佐藩”とイギリスの関係が他にも出てくると思います。
同じく、“土佐藩”とイギリスという関係なら『池道之助日記』(『武市佐一郎全集』の中に収録)にも出てくるかもしれません。
あと、資料があるかどうか知らないのですが、近藤長次郎はグラバーの船でイギリスに密航しようとしていましたので、その頃の資料を探せば、亀山社中とグラバーの関係が書かれているかもしれません。
単にイギリスとの関係というならば、龍馬たちはイカルス号水夫殺害事件で大きく関わります。貿易関係ではないので、お探しの資料ではないかもしれませんが、この事件は土佐藩も巻き込んでいますので、資料は土佐藩側にも結構残っていると思います。『山内家史料 幕末維新』などです。あと『佐々木高行日記』や『保古飛呂以』など。それからアーネスト・サトウの書いたものにもこの事件は出ていると思います。
他には、『海援隊日史』や『海援隊商事秘記』はどうでしょう。たぶん直接イギリスを示す言葉は出てないかもしれませんが、イギリスと関係を持っている時期の海援隊の史料ですので、必要な史料かもしれません。これらの史料は『坂本龍馬全集』に載っています。
他には、龍馬たちはいろは丸事件というのも起こしていますが、この事件について、世界の事例を聞き、世界の常識でアドバイスをしてもらうため、長崎にいるイギリスの海軍提督に対面する手はずを整えていました。(慶応3年5月27日高柳楠之助宛て龍馬書簡)
このように色々ありますが、イギリスを扱うとなるとイギリス側の史料も見ないと片手落ちになりますので、なかなか難しいテーマですね。
龍馬の立ち姿の写真は高知県が版権を持っていて、使用目的によっては、高知県庁の許可が必要です。(その他の写真や手紙もそれぞれ所有者が版権を持っています。)
ただ、営利目的ではないHPやTシャツなど、販売などの目的ではなく個人的に楽しむものでしたら、特に許可も必要はないと思います。ただし、途中で販売するなどの行為がおきた場合は、許可申請が必要になります。また、その写真をとるもの(本やHPからでしょうか?)によって無断転載禁止とあれば、そこに連絡して確認を取って下さい。また、龍馬という文字を独自に作成して使用する場合は許可は必要ないです。龍馬の筆跡に似せた文字を作成してもコピーでなければ大丈夫です。龍馬の直筆の手紙からそのままコピーする時は、その手紙の所有者に確認するようになります。(手紙の多くは国の重要文化財に指定されていて京都国立博物館が所有しています)もし当館のHPから写真をコピーするようでしたら一度ご連絡下さい。
通常、どこかの会社や団体などが使用する場合は、使用の許可申請を行っていただき、内容を検討した上で使用を認めております。しかしながら、個人に対してもそれを行うことは極めて困難なのです。どういう内容のホームページで、どのような使い方をするのか判断しなければなりませんし、ホームページは一時のものではありませんので、今後変更なされる内容をチェックする必要もあります。龍馬を扱った個人の方のホームページは大量にあり、写真を載せているものもたくさんあると思います。それらの内容をすべてチェック
することは困難ですし、たまに当館のホームページからの無断転載と分かるものがあっても、営利目的でなければ特に何も規制しておりません。歯切れの悪い回答になりますが、正式に許可申請をされても、上記のように内容を恒常的にチェックできないなどの理由から、個人の方に許可を出すことは難しい(例外はあります)です。また、同じ理由から「当館のホームページを個人目的なら自由に転載しても構いません」とも言いにくいです。現状では、個人が個人的な目的で使用するものに関して、当館は関知しないということです。
しかし、ホームページというものは、個人が個人的な目的で作成しても全世界からアクセス可能という点では、個人に留まらないものですが、それでも内容が個人的なものであれば、関知しません。
西暦表示についてですが、確かにご指摘の通り、本来は天保6年11月15日(1836年1月3日)−慶応3年11月15日(1867年12月10日)と表記する方が正しいと思います。
当館でもそれは以前から認識しておりますし、1835(天保6)年11月15日と表記することに違和感も感じておりました。しかし、龍馬の生誕の月日だけを西暦に直し、年号もそれに合わせて1836年とすることは簡単ですが、龍馬の生誕日以外にも年月日は沢山出て来ます。それらをすべて西暦に直すのは大変なので、龍馬の生誕日や命日だけを正確な西暦に直すことは行っておりません。
現在の当館の表記は、和暦が西暦でだいたい何年なのかが分かれば良いと捉えており、一般の方が混乱しにくいように天保6年=1835年と表記しています。暦の問題は西暦と和暦の問題や、元号の変わり目など正確を期そうと思えば複雑になり、一般の方が混乱をする可能性があるため、単純な表記にしています。全ての教科書を見たわけではないですが、歴史の教科書も和暦と西暦は単純な変換になっていると思います。当館も教科書と同じように表記するようにしています。
個人的には、この表記の仕方が本当に良いのかというと、始めにも書きましたが、違和感を持つ場面も何度か有り、複雑な気持ちです。例えば、龍馬の生誕日や命日は、一般の方は秋のイメージがあるかもしれませんが、実際には冬です。また、龍馬は数え年の33歳で亡くなっていますので、よく『龍馬の33年』のような題名の本が出ています。しかし、実際には31年と11ヶ月ちょっとの人生なわけですので、かなり変わってきます。ご指摘のように表記すればそんな誤解はなくなるかもしれませんが、一般の方にとっては複雑にもなります。なかなか難しい問題だと思いますが、分かり易さを優先しています。
以上が当館の暦の表示についての考え方です。
龍馬についてのご質問ですが、高知県には龍馬や龍馬にちなんだ名前(海援隊や乙女姉さんなど)が付いたものはたくさん有ります。しかし、当館にはそれらの沿革などが分かる資料はほとんどありませんし、私もほとんど知りません。とりあえず、電話帳に載っているものや、私が思いつくものを名前だけ列挙してみます。
「公共的な施設」
1. 龍馬歴史館(HPあり)
2. 龍馬の生まれた町記念館(HPあり)
3. 高知龍馬空港(当館の館だより「飛騰」に名前を変更する時の具体的な動きを載せたことがあります。高知新聞のスクラップも少々はあると思います。)
4. 龍馬郵便局
「その他」
5. 龍馬不動産
6. 龍馬第一パーキング(駐車場)
7. 代行龍馬(代行運転)
8. 龍馬学園(専門学校)
9. 龍馬観光(有)(観光会社だと思います)
10. リョウマコンサルタント(有)(龍馬倶楽部幹事の方が経営)
11. 龍馬石材(有)
12. 龍馬太鼓道場
13. 葬祭会館龍馬
14. 龍馬ヘアーサロン
15. 龍馬屋(不明)
16. りょうま薬局
17. リョウマン・エコカンパニー(有)(HPあり。龍馬倶楽部幹事の方が経営)
18. 米焼酎 龍馬の海援隊(土佐鶴酒造)
19. 麦焼酎 竜馬(菊水酒造)
20. 麦焼酎 竜馬ロイヤル(菊水酒造)
21. 土佐焼酎 竜馬(菊水酒造)
22. 龍馬からの伝言(日本酒 司牡丹酒造)
23. 龍馬のブーツ(サブレのお菓子 青柳(株))
24. 龍馬亭 松うら(居酒屋)
「その他龍馬にちなんだ名前」
25. さいたにや(喫茶店)
26. 乙女ねえやん(かまぼこ 永野かまぼこ)
27. 米焼酎 海援隊(土佐鶴酒造)
すぐに分かるものは以上になりますが、「〜龍馬」と後ろに龍馬が付くものは、NTTのタウンページのHPがありますので、そちらでキーワードを龍馬で検索するとまだまだ沢山ヒットします。これらがいつ頃から龍馬という名前が付けられたかはそれぞれにお問い合せいただく以外ないと思います。また、お土産物となるとあらゆるものがありますので、ここには書き切れません。
龍馬がいつから高知の象徴的存在となったかについては、明治時代初期の自由民権運動が盛んになった時期だと思います。詳しくは龍馬に関する図書をお読みください。詳しい図書なら大抵のものに書かれていると思います。(これに関しては飛鳥井雅道著『坂本龍馬』福武書店をお薦めします)また、第二次大戦前の追手前小学校(高知市内)の文集では、男子の歴史上の一番人気が龍馬だったという話を聞いたことがあります。原資料は未確認です。
高知には龍馬に関する名前が付くものが氾濫しており、県民は正直なところ龍馬という名前を聞くと「またかー」とうんざりする人が少なくないと感じております。これは県民性もあるかもしれませんが、鹿児島の西郷隆盛と比較すると分かり易いと思います。鹿児島では西郷さんの悪口を言うのには勇気が要りますが(これは実際に行って地元の方と話せばよく分かります。尊敬の対象なのです。)、高知では龍馬の悪口を言っても対したことにはならないと思います。あまりにも龍馬・龍馬と言われすぎるので、普通の人はむしろ龍馬に対する関心は薄いと思います。
「おーい!竜馬」のビデオは、「ポニーキャニオンショッピングクラブ」で取り扱われておりますので、下記のフリーダイヤルにお問い合わせ下さい。
ポニーキャニオンショッピングクラブ 0120-737-533(9時〜20時)
「おーい!竜馬」 各巻 税抜き¥2,713
・少年篇 1巻〜6巻 ・青春篇 1巻〜6巻 ・雄飛篇 1巻〜6巻
アニメ「おーい竜馬」には、「少年篇・青年篇・躍動篇」の3つの物語があります。
少年篇の誕生から、青年篇の成長、躍動篇の活躍を通じて、龍馬の生涯を紹介していますが、躍動篇の6巻目、暗殺シーンを最後に終了しています。
この作品は、ビデオ発売されておりますが、作品発売から年数が経っている為に、全巻購入や、レンタル等でご覧になるという事は、現在難しい状況にあるかもしれません。各6巻、合計18本、収録は1巻45〜60分となっております。
記念館の地下1階ビデオコーナーでは、春休み・GW・夏休み・冬休み等に、アニメ「おーい竜馬」のビデオ「少年篇・青年篇・躍動篇」をランダムに放映しています。
私どもで調べましたところでは、(市民図書館蔵書)著作は菊栄さんの福祉活動については、ご自身の回顧談のほかは特になく、しいて言えば、戦前の「高知新聞」紙上に載ったインタビューものがある程度です。菊栄さんについてのものは4冊で、終戦前が1冊、最近のものが1冊です。
□龍馬の姪・岡上菊栄の生涯(2003年3月 鳥影社)
武井優 著(書店で発売中)
□岡上菊栄の時代(1993年5月 三文々司)
前川浩一 著(高知市内在住の著者の自家出版。母乙女の思い出、母に次いで、養育をした公文婦喜[クモン・フキ]も亡くなり孤児となった苦労話、教慈 生などを描写。龍馬のことは出てこない。)
□シリーズ“福祉に生きる”3 岡上菊栄(1998年12月 大空社)
一番ヶ瀬康子 著(書店で取り 寄せ可能)
□傳掌・岡上菊栄(1943年3月 高知慈善協会)
宮地竹峰 著(慈善協会は博愛園など福祉施設を経営する団体で、菊栄もこのメンバー)
□龍馬先生逝いて七十年・老眼を瞬いて追想する維新俊傑の面影
(1936年11月高知新聞朝刊記事コピー)
(短いものなので目を通しましたが、叔父龍馬については多くの方が伝えておられるので・・・ということで、ほとんど触れていません。母乙女については、 やさしさ、厳しさ、夫・樹庵の暴力に耐えたこと、使用人・公文婦喜と夫との不倫にたまらず離婚し坂本家に戻ったこと。十歳代で母も婦喜も亡くなり苦労 したこと。のち5人の子どもを育て上げたことなどを語り、「叔父が亡くなってはや七十年、早いものです」と結んでいます。)
ご質問にありました書籍は、以下の物になります。
(洋書、原本)
Sakamoto Ryoma and the Meiji
Restoration
Marius B. Jansen (著) 1961
U.S. 定価: $24.00
価格:¥2,880
ペーパーバック: 442P
出版社: Columbia Univ Pr
ISBN: 0231101732
(翻訳本)
「坂本龍馬と明治維新」 (1965/04/30 初版)
マリアス・B・ジャンセン (著), 平尾 道雄
(翻訳), 浜田 亀吉 (翻訳)
価格 ¥1,200 出版社 時事通信社
ISBN 4788700026 400ページ
書店で見つけにくい場合は、インターネットの通販(AMAZON.CO.JP)で購入する事が出来ます。以下のURLのサーチの欄で、和書、「坂本龍馬と明治維新」として調べてもらうといいと思います。
http://www.amazon.co.jp/
マリアス・B・ジャンセン 博士…アメリカ人。ワシントン大学教授、のちプリンストン大学教授。ハーバード大学ライシャワー教授の秀才門下生。駐日大使をつ とめた事もある。
プリンストン大学教授として「Sakamoto Ryoma and the Meiji Restoration」(
坂本龍馬と明治維新)を出したのが、1961年(昭和36年)だが、この研究に着手したのは、ワシントン大学助教授の時代である。おそらく1956年頃(昭和31年)と思う。
特異な活躍をした坂本龍馬にポイントを当ててみようと考えた。彼が生まれ育った環境、成長して行くプロセスなどについて、高知で最も坂本龍馬に詳しい、平尾道雄氏(故人)を訪ね、お二人の交友関係が成り立つ。
この本はプリンストン大学から出版されているが、この日本語訳は、日本の時事通信社から昭和40年出版され、昭和48年に新装され、現在でも人気がある。
坂本龍馬記念館が開館した、1991年(平成3年)11月15日、ジャンセン先生は、ご夫人同伴で高知へ来られ、記念講演をして下さった。
さらに作家、司馬遼太郎さんが主唱してつくった、日本と外国の橋渡しをした人に贈られる、山片蟠挑(ヤマカタバントウ)賞の平成4年度の該当者にジャンセン先生が選ばれ、平成5年(1993年)3月、大阪ロイヤルホテルの授賞式にも来日された。(この時、奥様は足がご不自由で欠席)それが最後で、平成13年、プリンストンの自宅で亡くなられた。
万国公法は、ヘンリーホイートンが1840年代にまとめたもので、アメリカ人宣教師ウイリアム・マーチンが、慶応元年漢文に訳し、更に慶応2年日本でも出版されました。のちに国際法と言う名になるが、いろは丸事件では、賠償金算出の基準に万国公法が使われたことが記録にある。
龍馬の写真についてですが、当館が所蔵している写真は1枚もありません。立姿のものは、高知県立歴史民俗資料館が所蔵しており、高知県に版権があります。他の写真は個人蔵であったり、他の博物館の所蔵となっております。
龍馬の写真を、個人で非営利に使用される場合は、ご自由にお使いいただいて大丈夫ですが、商用や広告などに使用される場合、それぞれ所蔵されている所からの許可が必要になりますのでご注意下さい。
【立姿の龍馬写真のポジフィルムの貸し出しについて】
当館では高知県立歴史民俗資料館の“窓口”として、立姿の写真のポジフィルムを貸し出す事はできますが、貸し出しの対象は、研究目的か、観光目的、または館長が特別に許可をした時のみに限らせていただいております。
会社や企業のPRや広告などに立姿の龍馬を使用する場合は、高知県に版権がありますので、高知県(高知県庁の文化環境部文化環境政策課芸術文化班
088−823−9791)の許可が必要になり、ここへお問い合わせの上、申請書を高知県庁へご提出していただく事になります。
【ホームページでの龍馬写真の使用について】
当館ホームページで使用している写真は、それぞれ所蔵している機関に許可を得て掲載していますが、非営利に個人的に作成されたホームページでの、写真の使用については、特に注意されることはないと思います。また、個人的な使用目的で写真をコピーすることも、特に注意されることはないと思います。しかしながら、営業目的・本への掲載などで使用する場合には許可が必要となりますので、ご注意下さい。
当館では龍馬のCD−ROM、司馬遼太郎氏原作の「竜馬がゆく」と「坂本龍馬千里を翔ける」がご覧いただけるようになっております。
両方とも全国のパソコンショップで購入できるようですが、下記お問い合せ先でも通信販売されています。
●「竜馬がゆく」CD−ROM 企画・制作・発売=潟tラッグシップ TEL 03−3259−2655
http://www.flagship.co.jp/
●「坂本龍馬 千里を翔ける」CD−ROM 鞄立製作所ソフトウェア事業部(日立ダイレクト) TEL 0120−7000−91
http://www.hitachi.co.jp/Prod/comp/soft1/contents/ryoma.html
ご質問の催しは、「龍馬ハネムーンウォークin霧島」と言いまして、今年(平成14年2月9日と10日の2日間開催)で第6回を数えるイベントになります。
鹿児島県牧園町高千穂3311−3 大霧島観光協会「龍馬ハネムーンウォーク実行委員会」が主催しています。
お問い合わせ先
TEL 0995−78−2115 FAX 0995−78−3487
URL http://www3.ocn.ne.jp/~kirisima/index.htm
亀山社中については正確な名簿はありませんが、それをそのまま引きついだ海援隊は出身藩も記入して記録されています。
メンバーは全体で約50人(水夫、火夫を含む)です。
内訳としては・・・
土佐藩からは坂本龍馬、高松太郎(龍馬の甥,のち坂本直となって龍馬のあととりとなる)、石田英吉(イシダエイキチ,のち京都府知事)、菅野覚兵衛(スガノカクベエ,のち海軍少佐、お龍の妹君枝と結婚)、長岡謙吉(ナガオカケンキチ,海援隊書記、龍馬の死後海援隊隊長)、新宮馬之助(シングウウマノスケ,龍馬と幼友達、のち薩摩にうつり寺内信左衛門)、沢村惣之丞(サワムラソウノジョウ,のち関雄之助、龍馬と共に脱藩した、長崎で薩摩藩士誤殺事件の責任を負って切腹)、など12名。
越前からは関義臣(セキヨシオミ,山形県知事、徳島県知事などつとめる)、小谷耕蔵(コタニコウゾウ)ら6名。
越後からは白峰駿馬(シラミネシュンメ,航海造船の専門家、アメリカ ラトガース大学へ留学、自分で造船会社をつくる)、橋本久太夫ら2名。
紀伊からは陸奥宗光(ムツムネミツ,当時は陸奥陽之助、日清戦争の時の外務大臣として講和条約を締結、多くの不平等条約を改訂)
亀山社中に関する本やHPをご紹介します。
「坂本龍馬 海援隊隊士列伝」 著者 山田一郎 他 発行所 新人物往来社
「ある海援隊士の生涯ー菅野覚兵衛伝ー」 佐藤寿良著(絶版)
「続・ある海援隊士の生涯ー白峰駿馬伝ー」 佐藤寿良著
URL http://www2.inforyoma.or.jp/~kaien/index.htm
京都から土佐まで、江戸から土佐まではどのくらいかかるか。これは、歴史研究家の広谷喜十郎先生にうかがいました。それによりますと、
江戸からは、
●至急便(公用便)で 4日(昼夜走りっぱなし)
5日( 〃 )
7日(それよりはすこしゆっくり)
●普通便では、半月くらいかかったそうです。
また、
●船に乗る人にたのむ方法
●公用便に便乗させてもらう方法
●大阪、土佐では、定期の船便があり、それにたのむ方法
などがあったということです。
「ささおくり」といって、笹の葉が枯れないうちに送るという至急便もあったそうで、面白い呼び名ですね。
いずれにしても、1人の飛脚が全部の道を1人で走るのではなく、駅(中継ぎ所)でリレーをして届ける。夜は灯りをつけて走る。もっと急ぐものは馬で走るでしょうが、いずれにしても四国へは船で渡らなければなりません。この時間を入れて4、5日とすれば、大変早いことになります。料金は貧しいものには手がとどかない制度だったので、公式のものは高かったのでしょう。「応急の手当で」という書き方をしているので、「それなりの料金」でたのむこともできたと思います。
料金について○○両というように具体的には広谷先生もわからないそうです。
この写真はかなり出まわっており、中にはかなりの代価を払って求められた方もあるようですが、書かれている人物の名前も、フルベッキ博士とその子供さん以外は、全部「ウソ」です。つまり、後代の人がそっくりさん写真にしてしまって、もっともらしいいわれをつけたものです。
この写真を撮ったのは上野彦馬で、文久2年(1862)長崎で営業写真館をオープンし、京の下岡連杖と並んで草分け的存在です。龍馬もこの上野彦馬のところで、何枚かの肖像写真を残していますが、有名なのは@台の横に立ち手を懐に入れているもの、A椅子に座り横向きで大小の刀を差しているもの2つその他バストショット(胸から上)のものも1〜2枚あります。(いずれも慶応2〜3年撮影)この龍馬の顔と、集合写真の龍馬の姿と見比べてみれば、同じ年、或るいは1〜2年の差と考えても、あまりにも違い過ぎることがわかると思います。また、横井小楠は龍馬より25歳も年上で、おでこに沢山皺のある人ですから、これも大違いです。
私どもの館にも、全く同じ写真がありますが、写真そのものは、佐賀藩の青年たちが、英語や科学を習っていたフルベッキ博士が、江戸へ赴任するのを機会に送別の意味で撮ったもので、私どもの館で展示するときは、「フルベッキ博士と佐賀藩・長崎致遠館の研修生たち」明治2年上野彦馬撮影とします。
そして、これについては、ソックリさん的説明がつけられ、話題を呼んだがそれぞれの人物の本物の写真と比べれば、本物でないことは容易にわかる・・・と解説をつけています。
【フルベッキ VERBECK・Guido Herman Fridolin】
オランダ・ユトレヒトツァイスト出身。宣教師。
安政6年11月、ダッチリフォームド教会宣教師として、長崎に来航。元治元年8月より幕府の長崎外語伝習所、済美館の校長兼教授として、週5日、英語や科学などを教授した。また、慶応2年6月からは佐賀藩設立の長崎致遠館の教師に任ぜられ、多くの人材を育成した。維新後は新政府の顧問格として、諸施策に参画した。明治2年に長崎から東上する際、多くの門弟たちとともに撮影した集合写真を残しています。(この写真が問題のもので、元治元年には、この広い写場は、上野彦馬の所になく、スタジオを増築したのは明治2年と言われています。)
[参考文献] 「幕末維新−写真が語る−」 安田克廣 編 株式会社明石書店(1997年3月20日)発行 定価 2575円
当館にも「公文菊僊欽冩」と書かれた画があります。ご所蔵のものもおそらく「欽馬」ではなく、「欽冩」ではないかと思います。これは間違いなく公文菊僊の書いたものです。この「欽冩」は人の名前ではなく、“うやまいながら写す”とか“仰ぎしたいながら写す”というような意味だと思います。「冩」は「寫」の俗字で、「寫」は「写」の旧字です。
公文菊僊の本名は公文時衛で、明治6年高知市の鉄砲町に生まれます。菊僊は号になります。維新の志士たちの肖像画をおもに描いていましたが、なかでも龍馬を描かせると、並ぶ者はなかったようです。同じ構図で何点も描いており、当館にも2点あります。他の所でも10点以上確認されており、さらに個人蔵となると倍以上はあるのではないかと思われます。よって、希少価値はほとんどないのですが、龍馬の雰囲気はよく表れた作品なので、人気はあります。
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公文菊遷は明治6年(1873)高知市生まれ、現在の追手前高校で当時の高知尋常(じんじょう)[ふつうのという意味]中学校を卒業。在校中に楠永直衛(くすながなおえ)から、西洋画を教えられたのがきっかけで東京に出、日本画の師について人物画の修行をしてきました。講談社(現在もある出版社)でさし絵を書いたこともあり、龍馬の銅像が高知に建てられた昭和3年(1928)頃から起こった龍馬人気に支えられ、肖像画を求める人が多かったため、維新での若者の活躍を理解してもらうためになればと、龍馬をはじめ当時行動をともにした武市半平太、中岡慎太郎などの肖像(日本画)を数多く描きました。
菊遷は、昭和20年(1945)に亡くなりますが、それまでに描いたものは数えきれないくらいで、同じ人物の絵は印刷したと思うくらい同じに描かれています。どれが本物でどれが偽者ということではなく、自分で描いたもとの絵を、菊遷自身がよろこび(欽)を以って描き写したということです。画の上にある賛(さん)[詩のことば]は中島気曹ェ書いたものが多いようで、日露戦争の時は、皇后陛下の夢枕に立ち日本の勝利を予言したことなどいろいろあります。
郷士の差別についてですが、土佐藩の身分は下のように、大きく分けて上士と下士の2つに分かれます。
上士は、「家老、中老、馬廻組、小姓組、留守居組」の5つです。
下士は、「郷士、用人、徒士、足軽、小者」の5つです。
このように郷士は下士の最上位に位置付けられており、その中でも特別格が白札郷士になります。
上士とは、関ヶ原の戦いの後、土佐に入国してきた山内氏が連れてきた侍がおもで、郭中(かちゅう・かくちゅうとも言う)と呼ばれる高知城周辺の決められた場所に屋敷を持っていました。
下士たちは、この郭中に屋敷を持つことを禁じられ、郭中の西側にある上町や、反対の東側にある下町や、村に住んでいました。龍馬の家は上町です。それからこの郭中では、下士たちは日傘をさすことを禁じられていました。ただし、1760年以降は上士に無礼の無い限り許されていましたので、龍馬の時はさしても大丈夫です。また、下駄をはくことも禁じられており、衣服の質も差をつけられています。さらに、下士と上士の結婚も認められていませんでした。
切捨て御免については、土佐の上士と下士に限らず、他の藩であっても下級武士が上級武士に対して無礼な行為をした場合は、切捨てられることがありますので、土佐藩に限った差別ではありませんが、実際に下士が切り捨てられた事件も何件かはありました。
ちなみに、まんがの『お〜い竜馬!』の中では、郷士が馬に乗ってはいけないかのように描かれていましたが、郷士は江戸時代初期から馬に乗るための侍として組織されていましたので、そういう差別はありませんでした。
いろは丸事件での龍馬の対応をまとめてみました。
〇慶応3年4月23日衝突。その夜から翌日にかけ、上陸した(広島県福山市)鞆(とも)で談判。万国公法で決着をつけることを提案。
〇紀州藩明光丸、急用を理由に龍馬たちを残し長崎へ。龍馬たちも怒り長崎へ追いかけて談判再開。
〇航海日誌や談判記録を確保。
〇海援隊のメンバーに「一戦交える覚悟を」と檄をとばす。重ねて航海日誌や談判記録の保全と確認を命令。
〇寺田屋へ一報「ちょっと忙しくなるが心配するな」
〇下関の伊藤助太夫(龍馬が家を借りている人)へ「家には誰も近づけないよう見張りをよろしく」
〇京都の出版元へ「万国公法」の印刷を依頼する。
〇紀州藩の船長らと交渉。以下の事を要求した。紀州藩は「大きい藩」ということを笠に着て威張っていたが、龍馬たちの言い分がもっともなので、タジタジとなり、病気だと言って逃げ回る。
●土佐の連中を放ったまま出港したのはけしからん!
●2度も衝突させた責任はどうなるのか!
●万国公法ではなく幕府の判断によって決着をつけるとは何事か!
●長崎で、海難事故審判に経験の深いイギリスの提督に裁いて決着をつけよう!
〇土佐藩から参政後藤象二郎ら応援に到着、交渉に加わる。龍馬も応援に感謝。後藤がやかましく責め立てたので、紀州藩も薩摩藩五代友厚へ仲裁を依頼。ほぼ1ヵ月後の5月28日か29日頃、賠償を支払うことで落着。
〇この間龍馬は世論を味方につけるため、長崎の繁華街で、「船を沈めた紀州藩はつぐないをせよ」という歌を流行らせた。そのおかげで、長崎の町民たちが海援隊の人たちに、紀州をやっけろと励ましに来るなど大いに効果を上げた。
〇いろは丸事件で龍馬は以下にあげる現代の危機管理対策を見事にやっていき、一ヶ月間に上手に展開していて感心させられる。
●一戦交える臨戦体制
●世論操作と情報発信
●身内の安全確保
●筋を通した交渉
●強力な応援体制の確保
●交渉の結着点・結着対応などを決める
いろは丸事件に付いてかかれた本で、おすすめの物は、次の2冊になります。
〇森本繁『いろは丸事件の謎を解く』(新人物往来社 1990.10.10)
〇新人物往来社編『共同研究・坂本龍馬』
織田毅「再考・いろは丸事件−賠償金はなぜ減額されたか−」(新人物往来社 1997.9.10)
また、広島県福山市に「いろは丸展示館(0849)83‐5661」がございますので、お問い合せいただいたらもっと詳しい事がわかるかもしれません。
展示内容としましては、潜水調査で引き揚げられたいろは丸の一部や、龍馬の隠れ部屋が再現されているようです。
龍馬は手紙に食べ物のことを書いていませんので、好物やどこでどんなものを食べたのかはわかりません。従って、これは言い伝えられていることとしてお返事しますが、慶応3年11月15日(暗殺された日)の夕方、中岡慎太郎と話し込んでいた龍馬がそばにいた峰吉に「軍鶏鍋でも食おうか、買うてきてや」といい使いに出します。ところが、その直後、龍馬と中岡と藤吉しかいなくなった近江屋の2階に刺客が上がり3人ともやられてしまいます。軍鶏を買いにいった峰吉が戻った時には龍馬は息絶えていました。いつもの店に軍鶏が無くて、遠い店まで買いに行った・・・とも書かれていますが、龍馬にとっては「食べそこなった軍鶏鍋」になりました。龍馬が中岡の来訪をもてなすため11月の寒い折から、温まる軍鶏鍋を思いついたのではないでしょうか。海援隊始末記をはじめ殆どの本に書いてありますが、これはのちに峰吉が話したことを材料としていると考えられます。
土佐の地酒の資料ですが、「高知県酒造会館」(電話:088−823−3558)に高知県酒造史(廣谷喜十郎 著)があり、第1集と第2集とに分かれているそうです。それぞれ、1500円と2000円で本来非売品ですが、販売もしてくれるそうです。
あの写真は私も一瞬びっくりしましたが、耳の形がそげているのと、その他、側によってコンピューターに入れてみると合わないところもあるようです。実はこの写真の本人の名前がその後わかり、現在では100%龍馬でないことが証明されています。この本の出版元でも、それを認めています。
「紙入れ」は「三徳」とも言います。「紙幣」を入れるものではなく、なんでもちょっと入れておく「小物入れ」のことです。「広辞苑」によれば、「三徳(3つの徳用があるという意味)は、鼻紙袋の一種。江戸時代に流行したもので、鼻紙を入れるところの他に書き付けや楊枝を入れる2つの口もある。」とあります。
ロミュラス・ヒルズボロウ氏の「Ryoma」(英語で書かれた坂本龍馬の伝記小説)ですが、当館では販売しておりません。
日本では紀伊国屋書店の店頭販売でのみ取り扱っております。東京の新宿に紀伊国屋書店の本店と南店がありますが、そこの洋書売り場で扱っております。電話番号 「本店」03−3354−0131(洋書売り場)、「南店」03−5361−3301(洋書売り場)です。
また、アメリカから直接購入する方法もございます。詳しくは、電話 415−841−0508 FAX 415−841−0592 にてお問い合わせ下さい。
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書店で見つけにくい場合は、インターネットの通販(AMAZON.CO.JP)で購入する事が出来ます。以下のURLのサーチの欄で、洋書、「ryoma」として調べてもらうといいと思います。
http://www.amazon.co.jp/
ロミュラス・ヒルズボロウ著 「Ryoma」 (英語で書かれた坂本龍馬の伝記小説)
Ryoma: Life of a Renaissance
Samurai
Romulus Hillsborough (著)
ハードカバー (1999/05/01)
U.S. 定価: $40.00
価格: ¥5,279
龍馬郵便局に問い合わせをしてみたところ、1月1日〈元旦)のみ記念スタンプを押印するそうです。またそのための台紙も作るそうです〈高知中央、本町、龍馬郵便局のみで取扱い)。なお、龍馬郵便局の連絡先は088―823―4782となっております。
当館が所蔵しているビデオの中には残念ながらありませんでした。どなたかテープをお持ちでしたら「お問い合せ」の欄にご一報下さい。
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FAQにあった、NHKの大河「竜馬がゆく」ですが、1967か68年放映のはずです。
ビデオが出ていないのも当然で、なにしろNHKにさえ、部分的にしか保存されておらず、全篇は残っていません。したがって、将来的にもビデオが出るはずはなく、レンタルショップを探しても見つかることはないと思います。古い時代のことなので、個人でビデオを撮った人がいる可能性も低く、入手はまず不可能だと思います。 (東京都 男性 29歳)
残念ながら、2001年は北条時宗に決定したようですが、昨年12月22日に
「2002年大河ドラマに『竜馬がゆく』を実現する会」(橋本邦健会長)のメンバーと橋本大二郎高知県知事が、東京渋谷のNHK放送センターを訪れ、海老沢
勝二会長に「ぜひ龍馬で大河ドラマを」と要望しました。今のところ「検討してみます。」というご返答だけですが、橋本会長は「今後、さらに2度3度と要望し、ファンの願いを伝えたい。」と意欲満々ですので、期待していてください。
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「ぜひ龍馬で大河ドラマを」とのNHKへの陳情が続いていましたが、残念ながら実現の可能性は、2003年以降に持ち越されました。
TBSで放映された「竜馬がゆく」のビデオですが、TBSのHPの ビデオリストを見る限り販売されていない様です。テ−マソングは「生きる歓び」沢田知可子&KATSUMI
(wea japan)です。
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FAQコーナーにあった、97年TBS放映の「竜馬がゆく」ビデオですが、発売元TBS、販売元ワーナーヴィデオジャパンで出ています。価格は、税抜16,000円(上下2巻組)です。 (東京都 男性 30歳)