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坂本直行について
 時代を紡いだ開拓者たち 〜“いごっそう”を貫いて〜

坂本直行 (1906〜1982) 開拓農民 画家

坂本直行写真  坂本直行家族写真

    写真説明:〔左〕坂本直行 〔右〕直行・ツル夫妻と子どもたち(後は友人)

坂本直行は「なおゆき」と読むが、人々は親しみを込めて「ちょっこう」さんと呼んでいる。
直行は1906(明治39)年、北海道・釧路に生まれた。北海道大学農学部を卒業後、誘われて十勝の原野に入った。開拓農民となった。その30年に及ぶ開拓者生活は想像を絶し、ついに離農。晩年は、画業に専念した。帯広市の製菓会社「六花亭」は、同社のホワイトチョコをはじめとするお菓子類の包装紙に直行の花の絵を使った。それが有名になった。1982(昭和56)年病に倒れ、死去。75歳。今年は生誕100年にあたる。
また忘れてはならないことがある。直行は龍馬の子孫であるということだ。直行の祖父・坂本直寛は龍馬の甥にあたる。ただ、直行は生涯、龍馬のことを語らなかった。土佐に来たこともない。あえて語らず、あえて知らんぷりをする。ひたすら農民として、画家として生きた生き様こそ「志」に生きた龍馬の人生にまた、符号するものだと思う。お互い筋金入りの“いごっそう”というわけである。

 

坂本直行年譜

明治39年(1906)

 

7月26日、弥太郎(旧姓浜武・熊本出身)、直意の次男として釧路に生まれる。
直意は坂本直寛の長女で、弥太郎はその婿養子である。弥太郎は材木業、牧場経営等、事業家としての手腕を振るった。
祖父・直寛は坂本龍馬の甥(姉千鶴・次男)。後に龍馬の長兄・権平の養子となり、坂本家の家督を継いだ。
直寛の実兄・高松太郎(後に直)は、坂本龍馬の遺跡養子。

大正 3年(1914)

8歳

直寛の死後3年経ち、家屋敷や農牧場管理のために一家は札幌に移る。

大正 4年(1915)

9歳

小学校3年の時には札幌郊外の手稲山に、中学時代には羊蹄山に登る。自然を好みこの頃から早くも山の絵を描き始めていた。

大正13年(1924)

18歳

弥太郎の希望もあって、北海道大学農学部実科に入学する。北大山岳部設立メンバーで入部後は精力的に山に登る。

昭和 2年(1927)

21歳

北海道大学卒業。温室園芸経営をめざし、東京田園調布の園芸会社に見習いとして入社する。

昭和 4年(1929)

23歳

札幌に帰って念願の温室園芸経営を目指すが、弥太郎の出資が困難になり、計画は頓挫する。

昭和 5年(1930)

24歳

秋、北大の同級生・野崎健之助氏の誘いで十勝・広尾郡広尾村(現・広尾町)に出かけ、日高の自然に魅了される。
父への反発もあり、そのまま札幌に帰らず、野崎牧場で野崎と共に働くことに。

昭和11年(1936)

30歳

広尾村字下野塚の原野に25町の土地を取得して独立した。開墾の鍬を下ろす。
完成した住居は隙間だらけの掘っ立て小屋のようなものであった。父の反対を押して、春に石アツルと結婚した。秋には、生活のために炭焼きも始める。

昭和12年(1937)

31歳

北大山岳部第1回ペテガリ岳遠征隊の一員として参加したが、悪天候のため断念し下山する。
この登山中に長男が誕生。出産の時にはツルと赤ん坊の布団に雪が積もっていた。年末にようやく壁付きの家ができた。

昭和13年(1938)

32歳

次男誕生。

昭和14年(1939)

33歳

年末から記録的な大雪が降った。三男が誕生し、親戚である中原家の養子となる。

昭和15年(1940)

34歳

北大山岳部第2回ペテガリ岳遠征隊が遭難。直行も救助活動に当たるが、8人の仲間が死亡した。しばらく仕事も手につかぬほど落胆した。
牧場経営の可能性に向けてサイロを建設した。

昭和16年(1941)

35歳

四男誕生。この年は記録に残る冷害による大凶作で、一家は食べる物もなく芋と大根、ヌカ団子で越年、困窮の極みを体験した。

昭和17年(1942)

36歳

『開墾の記』発刊。五男誕生。

昭和19年(1944)

38歳

初めて父(弥太郎)に援助を頼み、念願の住宅を新築することが出来た。長女が誕生する。父との確執も消えた。数年後、弥太郎は直行と同居し、昭和25(1950)年亡くなる。

昭和20年(1945)

39歳

終戦。次女誕生。

昭和21年(1946)

40歳

広尾町農村建設連盟委員長に。以後10年余、農民運動に没入した。子どもたちも大きな労働力であったが生活は楽にならず、増えるのは借金ばかりであった。

昭和31年(1956)

50歳

長男(登)が進学のため東京に出ていく。自分の後継者と信じていただけにショックは大きく、農業断念の気持ちも生まれる。

昭和32年(1957)

51歳

彫刻家峯孝氏のすすめにより、札幌で第1回個展開催する。成功を収める。以後毎年開催。

昭和34年(1959)

53歳

第1回東京個展も成功、自信を深める。以後2年毎に開催。
帯広千秋庵(現・六花亭製菓株式会社)の小田豊四郎氏と知遇を得る。

昭和35年(1960)

54歳

月刊・児童詩誌『サイロ』創刊(六花亭発行)、表紙絵やカットを描く。『サイロ』は現在も続く。その後、直行の絵は六花亭の包装紙などに採用された。
30年にわたる原野での開拓農民生活に終止符を打って、豊似市街に移住した。画業へ転向、初めて電灯の下で生活をするようになった。

昭和37年(1962)

56歳

『歩々(ぽっぽ)の会』発足。直行代表で、現在に続く。

昭和40年(1965)

59歳

画業に専念するため、手稲山が見える札幌市郊外に新居を構え、移住する。

昭和42年(1967)

61歳

ネパール、カナダなどへスケッチ旅行を始める。以後4回渡航。

昭和49年(1974)

68歳

北海道文化省受賞。

昭和56年(1981)

75歳

東京個展の際、体の不調を訴える。

昭和57年(1982)

 

5月2日、膵臓ガンのため死去。

 
流れる血脈

直行さんの自宅アトリエには、龍馬、祖父・直寛、父・弥太郎、若き日の直行の写真が飾られています。「主人は龍馬のことを聞かれると、このアトリエに逃げ込んでいました」とツル夫人は笑うが、幕末から続く男たちの写真を見ると、不思議なつながりを感じずにはいられません。
「蝦夷(北海道)開拓は1人になっても必ずやり遂げる」と言った龍馬は、その夢を実現させる間もなく暗殺されました。
民主的近代国家に向けて自由民権運動を展開し、坂本家をあげて土佐から北海道に移住した直寛。厳格な父・弥太郎への反発や自分自身の人生を歩むのだという強い意志をもって酷薄な原野での開拓農民生活を30年間続け、「わが人生に悔いなし」と言い切った直行。龍馬を語らずとも、そこに脈々と伝わるのは、”反骨””いごっそう”まっすぐな男たちの生きざまです。

 
 

 

坂本龍馬
(1835〜1867)
幕末の志士
海援隊長

  坂本直寛
(1853〜1911)
自由民権運動家
キリスト教伝道者
坂本龍馬   坂本直寛

◆龍馬にとっての蝦夷地(北海道)
 「蝦夷開拓」は、龍馬が“生涯の仕事”だと最後まであきらめなかった夢である。幕末の混乱の中で無為に命を落としていく青年たちを龍馬は憂えた。資源豊富な未開の地・蝦夷に彼らとともに移住し、原野開拓にあたりながら北方警備そして世界貿易をめざす人材育成をしようとしていた。
 どれほどその思いが強かったのか?「…何卒一人でなりともやり付申べくと存居申候」。つまり、一人になっても必ずやり遂げるというのである。慶応3(1867)年3月6日、長府藩士・印藤聿津(いんどう・のぼる)宛て書簡での決意である。

 

◆龍馬の影響強く受けて
 自由民権運動の代表的な理論家であると同時に、熱心なキリスト教信者であった。自由と平等を標榜する民主的近代的国家作りをめざした。叔父龍馬の影響を強く受けた一人で、土佐から開拓移民団を募り、北海道に渡った。北見のクンネップ原野に入植し、開拓会社「北光社」を設立、原野開拓に挑んだ。後年は牧師として、キリスト教普及活動を続けた。
 龍馬の長姉・千鶴の次男で、坂本権平(龍馬の長兄)の養子となり、坂本家の当主となった。

 
 
     
 
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